どっちかというと自分はモノが捨てられないタイプ寄りの人間です。
それでも数年に一回、モノを捨てたくなる病が発動する時があって、昔の日記、写真、本、洋服、などをごっそり捨てたことがあります。捨てたあとの気持ちよさ!捨てたことを後悔したことは一度もないです。
そういう気持ちもわかっているのに、ものや思い出をバンバンと捨てることが出来る人へのよくわからない恐怖心みたいなものが時々あります。これってなんなんだろう?
今回はちょっとその「恐怖心?」について考えてみました。
最近、仕事部屋を作りました。
前の職場を辞めてこれからは自宅で仕事をすると決めた時、デスクトップのPCと大きなモニターを買いました。それに伴いパソコンデスクも買ったのですが(それまでノートPCしかなかった)、置ける場が寝室にしかなく、しばらくずっと寝室で仕事をしていました。
そのうち仕事の資料や本が増え、Skypeで打ち合わせをすることも多くなり、寝室では何かと不便な事情も出てきました。なので物置になってた部屋を整理し、そこに仕事コーナーを作ったのです。
もっと前からそうしたかったのに重い腰が上がらなかったわけは、その部屋には私が以前使ってたベッドが置いてあったから。ベッド捨てるのってけっこう大変なんですよね。シール買って貼って、電話して、収集所に運んで…。
やりたい、しかしめんどくさい。涼しくなったら、暖かくなったら、この仕事が終わったら、体調が良くなったら・・・と、言い訳を作っては延ばし延ばしに。
なので自分の片付けに対するモチベーションを上げるために、再読も含め断捨離本を幾つか読みました。
- シンプルに生きる―変哲のないものに喜びをみつけ、味わう
- わたしのウチには、なんにもない。 「物を捨てたい病」を発症し、今現在に至ります
- 佐藤可士和の超整理術 (日経ビジネス人文庫)
- 人生がときめく片づけの魔法
有名なシンプル推奨&片づけ本ばかりです・・・刺激になりました。
実はそれまでやりたいと思いつつちっとも進まない状態の時、これらの本を読むのがちょっと怖くなっていました。
誰かの「断捨離しました」がつらい。
twitterやFBでも、誰かの「断捨離した!」「捨てた!」という書き込みを見るたびに、上にも書いたような、なぜかわからない、掴みどころのない恐怖心みたいなものを感じてしまって、この気持がどうしてなのか自分でもわからないのが気持ち悪くて。なぜだなぜだなぜだ???
- 「出来てない自分」に対して焦りを感じるから恐いと思ったのかな?…それもあるけどちょっと違う気がして。
- 「捨てまくる人には私も捨てられるのかも」という思いがあるのかな?…うーん、それも違うような。
でも、この中の、ゆるりまいさんの「私のウチにはなんにもない」を読んで、その気持ちの正体がちょっとつかめました。
ゆるりまいさんは、祖母、母、自分の女3世代が住む家で育ちました。しかしその家は「物を捨てられない祖母」と「片付けが苦手な母」が仕切る「汚屋敷」だったのです。そんな実家で育った反動で、大人になってからは猛烈な捨て魔となり、物を捨てたがらない祖母や母とは片付けについていつも対立。
現在、ゆるりさんは結婚し、祖母と母と旦那さんと3世代同居&ネコ3匹で新居に暮らしてるそうなのですが、そのお部屋の写真も本に載ってますがもう見事に部屋に何にもないw
きっかけは震災だったそうです。物は全てゴミになる、それどころか更に命の危険まで生む。
そんな大きなきっかけがあったあとでも、物を捨てられない母と、捨てたがりすぎる娘との間には同居に至るまでまだまだバトルが。
私、このお母さんの気持がちょっとわかるんですよね。片付けた方がいいに決まってる、それはわかってる。わかってるけど自分の意志でそれができない(多分一番の原因は、モノのない時代に育った人ならではの捨てることへの罪悪感と、お母さんの場合、先祖代々からの品々を自分の一存で捨てられないという思い)。なんでもバンバン迷いなく捨てる自分の娘が恐ろしくさえも感じる。
ああそうだ、罪悪感、なんですよね。そしてそんな罪悪感なんて無駄だってわかってるのになぜか呪縛されてる。そしてその呪縛がない人への、羨ましさと表裏一体なのが、その恐怖心なのかも。
「断捨離」になぜ恐怖を感じるんだろう?
前に私に断捨離ブーム?が来た時、その時はアパレル勤務時代から持ってた大量の服を思いっきり捨てたのでした。クローゼットに入りきらなかった「もう着ない服」。その多くを友達にあげたんだけどそれでもまだまだたくさんありました。それらを一掃して、クローゼットがスッキリして、本当に気持ちよかった。
もうね、その時は得意になってSNSに書きまくり。
「断捨離した~!気持ちいい~~!」って(笑)
「断捨離ハイ」ってありますよね。たしかに気持ちいいんです。そしていま思うと、そのハイな気持ちを表現するのに、「捨てられない」という心の状態に「グズだったなあ」という意味を込めていました。
それは今までの「捨てられなかった自分」に対してなんだけど、「捨てられない」心の状態の時に「捨てたよ!」という言葉が辛く感じるのって、こういう「私は捨てた」という言葉が放つ優越感的な攻撃性なのかな?(言ってる本人は自覚がない)
ゆるりまいさんのお母さんって、こういう気持ちだったんじゃないかな・・・なんて想像するのです。
本の中ではお互いのルールを守り尊重しつつも、そんなお母さんが少しづつまいさんに影響され、「捨てることへの罪悪感」の呪縛がほどけていくのが読んでてわかります。そこがとても面白かったです。
罪悪感の正体はなんだろう?
「捨てる」と同じくらいの攻撃力?を持つ言葉として、「やめる」もあるかもしれない。どちらも「捨てられない人」と「やめられない人」に対して優位性を持ってる。
前にweb文章の書き方の講座に出た時、「○○やめました」というのはとてもキャッチーでインパクトがあるタイトルだというお話を聴きました。確かに、
- iPhone やめました。
- 博報堂辞めました。
- 良い妻、やめました。
- 親を捨てました
なんてタイトルの記事を見たら、「むむ!?」と思ってクリックしてしまいそうです(笑)
やめたいけどやめられない、捨てたいけど捨てられない、そういう心の状態の時、こういう見出しはよくも悪くも刺激的です。私もそうなろう!と思うか、そうなれた人が羨ましいと思うか、妬ましいと思うか、恐怖を感じるか…。
会社を辞められない、良い妻、良い夫、良い子、をやめられない、毒親を捨てられない。
それと汚部屋の物を捨てられないことといっしょにするのは乱暴かもしれないけど、「捨てる」「やめる」を本当に実行する時に心に引っかかるのは、なんらかの「罪悪感」なのではないでしょうか?
まだ使えるのに、せっかくプレゼントしてくれたのに、高かったのに、あんなに好きだったのに、こんなに良くしてくれたのに、私が捨てたら(やめたら)〇〇さんに迷惑がかかる、△△さんが悲しむ、□□さんを失望させる・・・etc
自由になれない理由なんてそれこそたくさんある。
私が物置部屋のベッドをいつまでも捨てられなかった理由は、単に大きいから面倒だ、ということだけでなく、もしかしたら心の奥底で、「いつか母の来る場所」を取ってしまう・・・という思いがあったのです。きっと。
でもずっと使ってなかったベッドは、マットレスがびっくりするくらい黴びてて、もはや人が寝られるような状態じゃなかった。
そんなベッドをアテもなく置いておくよりは、仕事コーナーとして使ってたほうが何百倍も効率的!と、今は心からそう思えるし、実際仕事もはかどってます(笑)母も実家でひとりだけど十分まだまだ元気です。
なんだ、こんなことに恐怖を感じていたのか。捨てたあとはあっけないんですよね。
もし自分が誰かの、「捨てた」「やめた」に過敏になってるなと感じた時、それは何かの罪悪感に縛られて身動きが取れなくなってるのかもしれない。でもその罪悪感って本当は全然大したことがないかもしれないのです。
なのに「めんどくさい」とか「体調が悪い」とか「忙しい」とか、一見関係ないことがからまってしまうと、その結び目にガチっとはまりこんで固定されちゃうことがあるんです。
私、「快適センサー」が一番鈍るのってこの正体不明な「罪悪感」が起こしてる「心の状態」だと思うのですよね。センサーが鈍ってると、そういうことに気がつきにくくなります。それはちょっと心が硬化してる状態かもしれません。
捨ててみたら本当に気持ちがいいことが待っているのだから。
↑もし、これになんらかの攻撃性を感じたとしたら、ちょっと「考えて」みてくださいね。
参考リンク
- 快適センサーについて・・・幸せって「快適センサー」の感度で決まるのではないか?の考察
- ゆるりまいさんのブログ・・・なんにもないブログ