基本在宅仕事なので毎日は電車に乗りませんが、ここ最近、朝から電車に乗ってちょっと遠くまで行く案件が重なりました。
先月は、埼玉のクライアントさんの所に顔合わせのご挨拶に行くため横浜から東横線に乗りました。
東横線は以前は渋谷までだったけど、今は埼玉の目的地の駅までなんと一本で行ける!昔に比べずいぶん便利になった。
電車に長距離・長時間乗っていると周りの乗客が何回も入れ替わる。最初は会社に向かう社会人らしき人、大学生、おばさん、子ども連れのお母さん。
一応自分もこれから仕事なんだけど、入れ替わり立ち替わる人々や窓の風景が知らない街のものに変わって行くのを見てると、なぜかこの電車の中で、自分だけがアテもなく何の目的もなく、ただここに座ってるだけの存在のように思えてくる。
そんな「ワタシは電車の地縛霊ハナコ」妄想をするのが(暇つぶしに)楽しかったり。
また、普通の在来線に長距離乗っていると、例えば、いつもの通勤電車でいつもの駅に降りる時に、「ふと」もっともっと先の…海が見たくなってそのまま終点まで乗ってしまった、そんな「サボり」感覚もプラスで味わえる。
サボり感覚といえば「行き」だけではない。家に帰る電車に乗りながら「ふと」まっすぐ帰りたくなくて途中の駅で降りてしまいアテもなく街をプラプラ歩いてしまったりする「帰り」もあるよね。(この場合は地縛霊というより「浮遊霊ハナコ」になるのかな)
誰もが一度くらいはそういう、「つい終点まで行ってしまって」「つい途中下車してしまって」からのハナコ化経験ってあるんじゃないかな?
しかし本当のハナコになりたくはないのだ
さて。そんな風に電車の中で「ワタシは地縛霊ハナコ」妄想(謎)しながらも、時間が経てばキッチリ目的地に運ばれているわけで仕事モードに戻るわけですが、この一瞬の浮遊感覚というのはなかなか良い気分転換になる。
だからたまの中距離遠方での打ち合わせというのは好きです。
「浮遊感覚」と書いたけれど、どう例えるともっとしっくり来るかな?「居るべき場所」や「あるべき行動」から一瞬心が離れるような感じ。
移動する時間の長さと退屈さ、まわりは入れ替わり立ち替わりの日常が動いている中で自分だけが「動いてない」。なんだか時の流れを川辺から見てる超越者の目(大げさ)の仮体験みたいな…。
まあしかしそれって、結局は電車が目的地に自分を届けてくれるという安心感からの心の遊び、なのかな。
逆に、では何のアテもなくただひとり、電車に乗って行けるところまで行っていいとしたら、自分はどこまで行けるだろうか?どこまで「電車の地縛霊ハナコ」モードで楽しめるだろうか?
たぶん、自分は電車に乗って「電車の地縛霊ハナコ」モードは楽しめるけれど、ハナコになるために電車に乗ることはないだろうな。本当のハナコそのものにはなりたくないのだ。
さまようハナコとたたずむハナコ
デパートで働いていると毎日お店に来るお客さんというのが少なからずいるのがわかる。先着50名様にご来店プレゼントなんて企画があると毎回同じ人が並んでいる。
だいたい高齢者の方だ。時間がたくさんあるからなんとなく人の集まるところに集まってくるのかもしれない。別に粗品が欲しくて並んでいるわけではないんだと思う。だいたい元気な高齢者さんで、暇つぶしだろうけど「ハナコ」化はしていない。
「デパートのハナコさん」は、日中のほとんどの時間をウィンドウショッピングをしているようでいて実はアテもなくさまよっているお客さん(高齢者だけじゃない)だ。
また、休憩時間にドトールとか安めのカフェに行くと、いつもおなじ場所に座ってるお客さんもいた。お昼くらいから夕方まで、いつ行ってもいた。(当時のドトールは煙草が吸えたのでおじさんが多かった)
大抵の人は街を歩いてても、とどまっていても、なんかしらの「目的」を持っている。移動なら移動、買い物なら買い物、散歩なら散歩、人待ちなら人待ち、ボーッとしてるならボーッとしてるなりに。
でも「帰る場所がない」「居場所がない」ことで街をさまよってる人や佇んでいる人は…なぜかすごい目立つのだ。
中学の時、夜の9時位に母と一緒にどこかから家に帰る途中、同級生の女の子が一人で歩いてるのを見たことがある。
あとでその子に「なにしてたの?」と聞いたら、通っていた塾を勝手に辞めてしまって、でもそのことを家の人に言えなくて、塾に行くふりをしてグルグル歩いて時間を潰していたらしい。
あの時のうしろ姿を今でもやけに覚えているのもやはりすごく目立っていたから。夜に中学生が、というだけじゃなくて…「帰れない人」のさまよう後ろ姿は目立つのだ。(そして女の子はやっぱりすごく危険だ)
居場所を失うと人はハナコ化してしまう
「電車のハナコさん」ごっこは、やはり目的地があってこその「遊び」であって、居場所がなくて電車に一日何往復も乗っていたとしたら、そんな自分はきっとあんな後ろ姿に見えるのではないだろうか。
ふと海が見たくなって終点まで行ってしまうのも、家に帰る前に「なんとなく」途中下車してしまうのも、結局は居場所である会社や学校、家があってこその「ちょっとの逃避」で、誰だって時にはそういう遊びは必要なんだとも思う。
しかし「ハナコ」は仮面として身にまとってるうちは「透明人間」感覚を楽しめて良いけれど、本当にそれが「顔」になってしまったら、透明人間でありながら実に目立つというよくわからない異形の寂しいものになってしまうのだ。
私は街を歩いてて「帰れない人」の後ろ姿に遭遇すると落ち着かない気持ちになってしまう。どこかで自分は「どこにも帰れなくなること」を潜在的に恐れているんだと思う。
帰れる場所というのは「自分の居場所」だ。居場所は一か所に依存せずたくさんあったほうが孤独になりにくいという。
しかし会社を退職すれば仕事場という居場所を失う。親が亡くなれば実家という居場所を失う。配偶者を亡くせば家庭という居場所を失う。友だちを亡くせば思い出という居場所を失う。健康や財産を無くせば家(気兼ねなくひとりでいられる場所)も失う。
なんだかな、そういう失うものばかりな未来(老後)に心がいったん引っかかると、どんどん元気がなくなってしまう。
でも心がそっちに引っ張られそうになった時、私にはいつも思い出すドラマのエピソードがある。
ヒロインの演じ手までも失くしたヒロイン
それは「カーネーション」という2011年に放映されていたNHKの朝ドラの話。
Amazonサイト:連続テレビ小説 カーネーション 総集編 [DVD]より画像引用
60歳になるヒロインに長いこと「戦友」だった男が「お前の宝かてこの先は失うばっかりや」だから俺と一緒になろうとプロポーズするシーンがあった。
しかしヒロインは「なんもなくさへん。うちはこれからも宝を抱えて生きていく」と答える。
そして舞台はいきなり10数年後(ヒロインはご長寿)
なんとそこではこれまでヒロインとともに物語を彩ってきた脇役がみんな死んでいるのだ。しかもヒロイン役は尾野真千子さんから夏木マリさんになって、ヒロインは、自分がこれまで魅力たっぷりに演じてきた尾野真千子さんであることすら失ってるのだ。
失いすぎるにも程がある(笑)もちろんプロポーズした男もすでに死んでいる。
しかし夏木マリさんになってからのヒロインは80歳を越えても仕事を引退せず、生涯現役のまま物語はさらに続いた。
長生きしたら長生きした分いろいろ失うことは仕方がないこと。夏木マリさんのヒロインには老いても「仕事」という居場所があった。
自分にとっての「居場所」がなにかはそれぞれが探すものだけど、サラリーマン(定年がある)の多い今の時代のほうが「仕事」より「家族」にそれを期待している人は多い気がする。しかしデパートで漂っていた方々がみんなひとり暮らしだとは限らない。
いや「ひとり」は実は良い居場所だ。3世帯で住んでいてもひとりというような「孤立」が居場所のなさになる。本当のハナコになってしまう。
「お前の宝かてこの先は失うばっかりや」は恐れとして心に在りながらも、今の自分はまだ「ハナコごっこ」で暇をつぶせてるくらいなので、本当のハナコはまだ実感したことがないのかもしれない。
しかし将来が心配だからといって、今から居場所を増やさなくちゃ!友だち作らなきゃ!仕事を守らなくちゃ!趣味を増やさなくちゃ!っていうのはなんか違う気がする。
今持ってるものをちゃんと「宝」として慈しみながら日々普通に生きていきたい。
「なんもなくさへん。うちはこれからも宝を抱えて生きていく」
そうすればなにもなくさない。
なんてことをまた今月、今度は千葉に向かう電車に揺られてハナコ(仮)モードになりながら考えていたのでありました。このハナコ(仮)になった時にだけハマれる思考ってあるのよね。
次は伊豆あたりに行けたらいいなと思っています。なにか仕事ないかな(笑)
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あとがき
9月から生活サイクルが少し変わったためブログをお休みしていました。でもやっぱりブログを書き、ノートを書く生活習慣が私の基本中の基本ということを実感。今月は時間のやりくりを工夫してまた更新していきたいです。