先日、12歳まで住んでいた町に行く機会がありまして、ものすごく久しぶりにその町を歩いてみました。
同じ横浜市内だし、今住んでる町からは電車で20分ほどなのでそんなに遠いわけではないんだけど、特に用事でもない限り行くこともなく…何十年ぶりだろうか?引っ越してからも祖母が住んでいたので高校卒業くらいまではよく訪れていたけれど、その後はほとんど記憶がない。
そんなわけで約30年ぶり。せっかくだからカメラを持って行きました。というわけで今回のブログは30年ぶりの想い出まち歩き日記…「ブラルッカ」です(笑)
変わったもの、変わらないもの、いろんな発見がありました。
1970年代の風景はもはやとても古かった
場所は横浜市磯子区、最寄り駅で言うと京浜急行の杉田駅とJR根岸線の新杉田駅。古くからの商店街がある下町です。
終戦後、母方のおじが勤める会社の社員寮だった建物(木造の長屋のような2階建ての寮)に一家で住むようになり、母が父と結婚後の新居もここで、その後兄と私が生まれました。
5月の連休に実家に行き、古いアルバムの写真をデジタル化して整理するため大量にスキャンしたのだけど、子どもの頃の写真に映る風景が今見ると古くてびっくり!戦後か?ってくらい(笑)
しかしこれは昭和40年代。ど根性ガエルとか天才バカボンとかのあの時代。木の電柱、雨の翌日は水たまりができる舗装してない道、トタン屋根、もちろん空き地には土管です(←実際に見たことはない)
ブランコの背後の左が住んでいた家。当時でもかなりクラシックだったこの寮はトイレは共同!お風呂は銭湯!…大きめのトキワ荘みたいな感じと言えばわかりやすいでしょうか?
ここに住んでいたのは7〜8歳くらいまでなので記憶はおぼろですが、覚えているのは夜のトイレが遠くて怖かったのと、雨の日でも寮の中は広くて廊下で遊び放題だったのと、祖母が隣で駄菓子屋をやっていたのでおやつには不自由しなかったこと(笑)
老朽化のため建て替えられた後は鉄筋の団地っぽい建物(もちろんトイレもお風呂もある)になりました。そこに12歳まで住んでいて、その後は今の実家がある町へ父方の祖父と同居のため引っ越すことに。
なので自分がこの町にいたのは中学1年の夏までで、ここには思春期以前の子ども時代のすべてがありました。さて、町はどんな風に変わっているのだろう?
梅の林があった町〜ぷらむろーど杉田商店街
今回歩いてみて、自分は昔の町の姿をけっこう覚えていることに気が付きました。子どもの頃の記憶力ってすごい。今の町にはもう10年以上住んでいるけれど、新しいマンションが建っても前の建物が思い出せなかったりするというのに。
まずは杉田駅の東口側に降ります。昔はここにアーケードのある商店街がありましたが、再開発されてショッピングモール+マンションになっています。アーケード商店街の時代になじみがあったのは、焼きそば屋さん(友だちのおばあちゃんがやってた)、本屋さん(よく漫画を買った)、花屋さん(夏になるとここで花火を買っていた)、ホットドッグ屋さん(インベーダーのゲーム機があった)など。
これらのお店はみんななくなってたけれど、「やま」という喫茶店と「トップ」というジーパン屋さんはショッピングモールに移って今も営業していました。
メイン通りの杉田商店街は「ぷらむろーど杉田商店街」というかわいい名前(プロムナードに空目する人多そう)になっていて、所々にシンボリックな緑の三角のサインが立っています。
昔、杉田には「関東随一」といわれ歌川広重も錦絵に描いたという美しい梅林があったらしい。しかし戦後の宅地開発で梅林は消え住宅地に。人口が増えたので新しい小学校を建てることになり、せめてそこに梅の林があったことを残すため「梅林小学校」と名付けられたそうです。
杉田は梅林のある町だったんですね。
横浜市立杉田小学校ホームページより画像引用
私は杉田駅寄りの杉田小学校に通っていて、こっちは明治創立の古い小学校でしたが、そういえば校歌に「春さきがけの梅咲いて〜♪」という歌詞がありました。今は商店街の名前をはじめ、町中で「梅推し」しているようですが、住んでいた頃は梅の名所だったことを知りませんでした。
京急杉田駅とJR新杉田駅を結ぶようにあるこの商店街は、乗り換えで朝夕に通行する人も多く昔も今も賑やかです。しかしお店はずいぶん変わっている。当時からあるお店はというと、
たい焼きくんブームの頃大人気だったたいやき屋さんがまだ健在。昔はたこ焼きも売ってたんだけど今はやってないみたい。
和菓子屋さんは2軒とも健在。食べ物関連のお店は意外と残っている感じ?しかしお茶屋さん、呉服屋さん、金物屋さん、酒屋さん、本屋さん、ふとん屋さんなどがもうない。そういえばプラモデル屋さんってのもあったけどやはりもうない。
シャッターが降りている店舗も数件あったけれど目立つほどではなかった。しかし今回ブログに書くのにあれこれ調べていたら2006年頃の商店街の写真を見つけたのだけど、その写真には私が記憶していたお店がまだ何件も残っていた。なくなりはじめたのはここ10年の間のことなのかな。
なくなった店のあとにはだいたいチェーン系列の居酒屋などが入っていた。JR新杉田駅の近くには大きなタワーマンションが建っていて、タワマンが建ち始めると町の風景というか動線が変わるイメージがありますね。元気な商店街ではあるけど少しづつ時代の変化は来ているのかも。
これから次の30年は、町はどんなスピードでどんな風に変わっていくんだろう。
不思議顔の狛犬がいる神社・杉田八幡宮
杉田商店街を通って国道16号線沿いをしばし歩くと右手奥にあるのが杉田八幡宮です。
背後の山の上に大きなマンションが建ってて、こうして見るとけっこう威圧感がありますね。
私はここに併設されてる杉田幼稚園に通っていました。神社の大きなイチョウの木は記憶よりさらに大きくなっていた。
杉田八幡宮(八幡さまと呼んでいましたが)の狛犬は横浜市で一番古く、江戸時代初期の頃のものだそうで市の有形文化財になっているそうです。これも知らなかった…園児の時この背中に乗って遊んでいたような記憶が(笑)。
お顔があまり怖くなくちょっとユーモラスでかわいい。犬のような獅子のような半魚人(?)のような…実は全国的にも珍しいカタチの狛犬なんだそうです。
晩秋になるとこのイチョウの葉が黄色くなって、園庭を埋めるほど落ちた黄色い葉がとってもきれいで、友だちと集めて雪合戦のように落ち葉を掛け合って遊んだのを覚えています。(ギンナンくさかった記憶はないので雄株なんだろうな)
毎年8月の24、25日頃に夏祭りがあって、ここのお祭りは出店も多く賑やかで楽しみでしたね。
「謎のオルガン」のあった家
さて、八幡さまからまた杉田駅方面に戻ります。今度は住んでいた寮(長屋)が建て替えしていた時に一年間(1976〜7年あたり。当時小3くらい)だけ住んでいた家がまだあるかをチェックしに。
この家で起きた出来事について昔こんなブログを書いたことがありました。
ざっくり説明しますと「この家にはオルガンがあった」と私は主張しているのですが、私以外の家族は全員オルガンの存在を否定(兄は曖昧)したのです。
私にはこの家で毎日オルガンを弾いて遊んだ記憶があるのに、ですよ?
弾いていた曲もオルガンのデザインも覚えているのに、親は「オルガンなんてなかった」というのです。しかし私は絶対にオルガンはあったと信じている!当時小3の私の記憶が一番怪しいとしても…。
そんなオルガンの思い出が(私にだけ)ある家を探します。まだあるかな?
わっ!あった!
当時は新築だったけどすでに築40年…見た目の古さに時の流れを感じる。まわりの家もだいぶ建て替わってたけれどここの一角だけ当時のままだった。
人が住んでいるかもしれないからあまり近寄らず遠目に懐かしみます。…ここでオルガンの音色が聴こえたらかなり素敵(オカルト?)ですがあいにく何も消えてこなかった(笑)
今回ついでに記憶に残るお友だちの家をいくつか探してみたのだけど、当時は一軒家よりもアパートや社宅に住んでいた子が多くそれらの建物はほとんど建て替わっていた。残っていてももう空き家になって朽ちていて40年の歳月を感じずにいられない…古い。
そりゃそうだ40年。かわいい小学生もアラフィフになる40年。うーん(笑)
小学校は校舎がすっかり建て替わっていた
さて次は商店街から横道に入り「東漸寺」を抜けて「杉田小学校」へ。
東漸寺は1301年に建立されたという臨済宗のお寺。梵鐘「永仁の鐘」は国の重要文化財に指定されているそうです(もちろん当時は知らなかった)このお寺にも幼稚園があったと思うんだけど少子化の影響か?なくなっていた。池は昔からあったけど周りこんなにきれいだったかな?素敵な日本庭園になっていました。
お寺を抜けたところに私が通っていた杉田小学校があります。
校舎は建て替わっていたけれど、校門やまわりの桜の木、体育館は昔のまま。プールがなくなっていたけど屋上かな?
この小学校はなぜか校門が3つもあるのです。校舎が何度か増築した影響でこれは当時から。今でも正門はどこなのか不明(笑)
そういえば昔、私たちが二十歳になった年にその時の在校生が掘り出すということで芝生の近くにタイムカプセルを埋めました(1979年・国際児童年とやらで全国的に流行ってた)。埋めた場所に校舎が建ってたけどちゃんと掘り返せたのかなぁ?
さて、学校をあとにして今度は住んでいた家に向かいます。
通学路にあった交差点。ここに信号ができるまで「みどりのおばさん」が毎朝立ってくれていました。学習塾のところにあったのは酒屋さんだったけど、そういえばこの町の酒屋さんは記憶にあったお店が全部なくなっていた…。
京急の線路沿い通学路。奥は当時はもう少し土手っぽくなっていてこの季節はあじさいが咲いていました。学校帰りにここでよくカタツムリを探したかも。
手前のスナックは昔からあって、今は昼からカラオケが聴こえてきます(笑)
さて、住んでいた家までもう少し。
町の記憶は「道」が保存している
12歳まで住んでいたのは杉田駅の西口側のこのあたり。
何棟かあった寮は2棟が建て替えられ残りはそのまま廃屋になりつつあった頃(その後廃屋も取り壊され一時期パットゴルフ場になっていた)です。
遊具もある公園(というよりただの広場)があるのと、京急の通過列車がすごいスピードで走る線路沿いでその通過音と、駅のアナウンスと踏切の音が年がら年中うるさいのとで、多少騒いだくらいでは叱られないという子どもに優しいエリアでした(笑)
冒頭で紹介した、父と映っている写真とブランコに乗ってる写真はこの「広場」で撮ったもの。今回同じアングルで写真が撮れないかな?と思ったのですが…この「広場」には大きなマンションが建っていてその場に立つことは出来ませんでした。
マンションと駐車場が完全に道を埋めてしまったため、駅からMAP左下の「銭湯」までの通り抜けもできなくなっていた(もともと道ではなく私有地だったのかも)
駅反対側のアーケード商店街が駅ビルに変わってしまったところもそうだけど、「道」がなくなると町の面影は失われるんだなぁとつくづく思いました。
建物や風景が変わっても「道」はめったには変わらないから昔の面影を留めることができる。でも道がなくなってしまうとそこは「突然現れた知らない場所」になってしまうのだ。
住んでいた建物はまだあって懐かしかったけど、それが残っていた嬉しさより「道」がなくなっていた残念さのほうが大きかったかもしれない。
銭湯の「杉田湯」がまだあったのは嬉しかった!
小さい頃はお風呂がなかったのでここに通っていました。お風呂屋さんちの子が同い年の幼馴染だったので、家にお風呂が出来てからもよく一緒に入りに行きました。
一度、銭湯の壁絵を塗り替えるところを見せてもらったことがあります!
職人さんが、下絵もないまま今ある絵のその上にペンキを塗って新しい風景に塗り替えていくのですが、それがすごいスピードなんですよ。とても鮮やかな手際で感動しました。
銭湯の前でウロウロしていたら、ちょうど出てきたお客さんに
「とてもいいお湯よ、入っていったら?」
と誘われました(笑)
「昔この辺りに住んでいたのですが、まだ営業してて嬉しいですね。」
と言ったら
「なくなったら困っちゃうわよ〜」と笑って答えてくれました。
幼馴染のご両親がまだやってるのだろうか?だとしたらもうけっこうご高齢かと思うのだけど、こうして来てくれるお客さんがいるから頑張ってオープンさせているのかもしれませんね。
地図にない場所〜30年後の町を歩いてみて
話は飛びますが先週末、横浜の開港資料館で現在開催中の「横浜・地図にない場所~消えたものから見えてくる、ハマの近代~」という企画展に行ってきました。
もともとワタクシ古い地図を見るのが好きというのもあってかなり興味深く楽しめました。横浜は東京や京都と違って近世から発展した町なのでそれ以前の地図は少ないけれど、明治以降はぐっと増えて目まぐるしく町の様子が変わっています。
大きな変化は3回あって、まずは横浜開港、そして関東大震災、さらに戦後の都市開発。これがだいたい160年の間の出来事と思うと、30〜40年というのはすでにその中のかなりの割合でけっこうなボリュームなんだなと。
しかしこうして明治からの地図や町の古い写真を見ていると、本当に町の風景が激変してしまったのは私が生まれる前、戦後から1960年代の間なのだ。
その間に、母が子どもの頃は潮干狩りに行ったという海岸線はすっかり失われ、川の多くは埋められ、前述した杉田梅林も宅地開発で消えました。
また、今回は行かなかったけどMAP右下の「つぼの海」と呼んでいた沼がある湿地帯は、男子ならみな一度はザリガニを釣りに行った場所ですが、こちらはバブルの頃の開発で沼は埋め立てられ、今は大きなマンションがたくさん建っているようです。
海岸線も湿地も二度と元には戻らない…失った自然の価値って今になるとよくわかります。今はもうない梅林の記憶で地域おこしをしてることを知ると、なんて惜しいことをしたんだろうって思ってしまう。でもこれはこの町だけのことではなく日本中にいえるのだけど。
今も東京では次々とタワーマンションが建ち、都心だけでなく古い商店街のある下町にもその波がやってきている。この勢いはオリンピックまで続きそうですね。防災面での懸念からせまい路地が消えるのは仕方がないのかもしれないけれど、道が消えると町の面影も消えてしまう。
大きな建築物は道を飲み込んでその上に建ってしまうから。
町の風景は開発だけじゃなくて災害でも変わる。最近だと東日本大震災もそう、津波で多くの町の風景が消えてしまった。道が残ればまだいいけれど、道ごと区画整理されてしまったら新しい風景にそれは継承されない。今回、道が残る場所と消えた場所を見て改めてそういうことがよくわかりました。
とはいえ町が生きてる限り、新しい風景をまた思い出とする人も生まれてくるわけで。
たとえば高度成長期の観光ブームの時には全国の城跡にどんどん「天守閣」が建ったけれど、それらの多くは「模擬天守」で時代考証をまるで無視したものも多い。でも30年、40年も経てばその天守がある風景が「故郷の風景」になるのだ。
それの是非はともかくとして、そんな風にタワマン群もなっていくのかな?(でもタワマンは住居だから今後人口減少したらと思うと微妙)
できれば、今もまだオンリーワンなものが町にあるのなら、自治体は50年後100年後への贈り物になるようにそれらを守って欲しいです。なくなった梅林や、いなくなった蛍、誰も覚えてないレシピで町おこしの姿は全国にあるけど、やはり失う前になんとかしていれば…と思うから。
この写真に映ってる建物はいまはもう全部なくて、この広場そのものもマンションで埋まり、父ももういないのでこの風景はもうこの写真の中にしかないけど、写真が残ってるおかげで記憶が蘇るように、今回この町を歩いた記憶としてこのブログに記録を残せば、同じ風景を知るどこかの誰かにふと懐かしく思ってもらえるかもしれない。
そんな思いで書いた「ブラルッカ日記」でした^^
参考リンク
- 【ぷらむろーど杉田商店街】地域のイベント・ショッピング・お店情報・話題などが満載です!
- 磯子区杉田は江戸時代に、梅の観光名所だったって本当?[はまれぽ.com]
- 磯子区の団地の近くにかつて「底なし沼」があったって本当?[はまれぽ.com]
- 近代横浜歩み知って 「地図にない場所」展|カナロコ|神奈川新聞ニュース
- 東京随一の「名物商店街」を襲う変化の荒波 | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準