胸に千巻の書 | Rucca*Lusikka

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えーと、今回の日記は雑記です。ほとんど頭にまとまってないんだけど自分的メモというかそんな感じです。

●「ひとたびはポプラに臥す」再読。

ひとたびはポプラに臥す(2) (講談社文庫)

ひとたびはポプラに臥す(3) (講談社文庫)

ひとたびはポプラに臥す(4) (講談社文庫)

ひとたびはポプラに臥す(5) (講談社文庫)

ひとたびはポプラに臥す(6) (講談社文庫)

宮本輝先生の著書で、中国の西安からパキスタンのイスラマバードまでのシルクロードの旅を綴った本。ただの「紀行文」とはいえない、旅を通じて出会った人、風景から、先生がたくさんの詩や文章を紹介してくれます。

自分の心の引き出しにたくさんのそういう「宝のような言葉」があるから、縁に触れて自在にそれらが溢れてきて、ひとつの風景にさまざまな何かを読み取れる人間になれる・・・そんなのを強く感じる本です。

「胸に千巻の書あれば語を下すおのずから来歴あり」

笑い方ひとつでもその人の胸に「千巻の書」があるかどうかで、現れるものは違って見えるんだろうなぁ・・・。

すでに何度も読んでいるので、今回もたまたま手に取った巻から読み始めたんだけど、1巻からきっちり読み直してみないといけない気持ちになりました。

【メモ】

●チェーホフが死ぬ少し前に、かつての恋人に送った手紙の一部

「ごきげんよう。なによりも、快活でいらっしゃるように。人生をあまりむずかしく考えてはいけません。おそらくほんとうはもっとずっと簡単なものなのでしょうから。」

人生をあまりむずかしく考えてはいけません・・・快活でいらっしゃるように。・・・悩みで頭がこんがらがった時に、出会うとちょっと肩の力が抜ける言葉かも。

●千夜一夜物語の中の言葉。

「わたくしたち女が何かを望む時には、どんなものもそれに打ち勝つことは出来ない」

こういうことを奥深い所ですでにわかってる女っていうのは強い。いや、全ての女はわかっているものなんだろうか?最近はひとりで何でもできる女が増えたので、返って女のこういう部分が退化してる気がする。

●ゴビ砂漠の竜巻「砂の竜」を見ながら輝先生が感じられた言葉。

「私は両親に溺愛されて育った。あんなに甘やかしていると、ろくなやつにならない・・・。そう陰口を言う人がたくさんいた。
けれども、私は両親の溺愛を、「砂の竜」を見つめながら思い浮かべ、少しのあいだ泣いた。いかなる言葉をもってしても尽くせないありがたさを感じた。
抱きしめて、「お前は可愛い子だ」と何度も言ってくれた。「おまえが死んだら、私たちも死ぬ」とも言った。私が、ここが痛いと訴えると、いつまでもそこをさすってくれた。それを幸福と言わずして何と言おう。」

この文を始めて読んだ時、私も涙が出た。愛されて育ったという記憶は子供の人生にとって一番の宝物だと思う。「自分よりも大切なもの」として愛されたという記憶は、なにがあっても最後にはその人を幸せにする・・・そんな気がする。いや、そうだと思う。

●レ・ミゼラブルで、ジャン・ヴァルジャンが臨終の間際にコゼットに言った言葉。

「コゼット、今こそお前のお母さんの名前を教えるときがきた。ファンチーヌというのだ。この名前、ファンチーヌを、良く覚えておきなさい。それを口に出すたびに、ひざまずくのだよ。あの人はひどく苦労した。お前をとても愛していた。お前が幸福の中で持っているものを、不幸の中で持っていたのだ」

自分が今もっているもののすべては「幸福の中で」持っている、そのことに感謝を忘れてはいけないな・・・。レ・ミゼラブルはあらすじでしか知らない・・・ちゃんと読まないと。

●小林秀雄の「ゴッホの手紙」の中の一文

「書けない感動などといふものは、皆嘘である。ただ逆上したに過ぎない」

私は小説家でもないし文章を書く仕事をしているわけでもないし、いつかはそうなりたいとかいうものもなく、ただ日々の感じたこととかをブログというものに書いてるだけなんですが、「書けない感動」は「皆嘘」というこの一文はいつも心に残ってます。

私の胸にある書はどう多く見積もっても1,000どころか100もまだない気がするんだけど、一個のなにかに触れた時に、書けない感動を自分の言葉でなんとか表現しとうとする訓練?みたいなものをしていきたいなと思うのであります。

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