3月、4月というのは年度の切り替えということもあって、自分にも周りにもなにかと変化が起こることが多いです。
その影響を受けいろいろ焦ったり落ち込みやすくなったりと、気分がざわざわしやすいのでこの時期は少し気をつけないと、と思っている。
やり過ごし方はわかってきているので「ああ今年も来たな」とノートを書いたり、気晴らしに出かけたりなどで気分転換を図っているけれど、それでも心にへばりつく「ざわざわ」がある。
変化の多いこの時期に感じやすいこれって、最近はもしかして「歳をとったから」に起因してるのではないかという気がしている。
何かを「失っていく」感じ…に近いだろうか?
いや、失っていくというより「失ったもの」に気づいてしまう、という感覚だろうか?
失ったものとして思い出したこと
週末の夜、ターミナル駅の通路を歩いていたら「会社の同僚であろう人たち」のカタマリが改札近辺に幾つかできていた。
おそらく送別会の帰り、電車に乗ればもうお別れという場面で、最後の挨拶とか名残惜しさとかそういうのでなかなかカタマリを崩せずにいる、そんな感じ。
その風景を見ながら昔感じたことを思い出した。ブログに書いた記憶があるので探したら2009年6月のことだった。
勤めていた会社が横浜から撤退してしまったことで失職し、パートだけど次の職場が見つかり働き出して3ヶ月目くらいの頃に、同じように駅で別れる「会社の同僚であろう人たち」を見たときのこと。
仕事帰りのビジネススーツを着た若い男女が、改札の所で
「じゃあまた明日!」
「頑張ろう!」
「おう、頑張ろう!」
的なやり取りをしていた。笑顔で手を振りながら。
それを見てなんだか懐かしく羨ましく思ったのだ。ああいいな、ああいう風に仕事に打ち込めている仲間との関係性って、と。
そういえば、ああいう言葉のやりとりで「同僚」と駅で別れるなんてことがもう自分には久しくなかったことに気がついた。
この時の職場のメンバーは、ほぼ自分と同じ年代で同じ雇用形態で働いてる人たち(既婚・扶養内)だったけど、仕事帰りに交わす言葉はだいたい
「お疲れさまでした」
「明日もよろしくお願いします」
という感じだった。その前の職場でもそう。
大人になれば職場では先輩でも後輩でも敬語が基本だし、パートや派遣で働くアラフォーには「頑張ろう!」と言い合えるような、ラフな「仲間意識」は持ちにくいのもあるかもしれない。
「また明日!」
「頑張ろう!」
仕事仲間とそう言いあえるような関係性は、もしかしたら「人生の一時」にしか得られないものだったのではないか?と。
私自身のそれも、会社員&フルタイムで働き同じ年代の「同僚」がいた20代の頃の記憶まで遡る。友人と仕事仲間との関係が線引されずに曖昧だった時代。
どうしてだんだんとその線引が明確になってくるのかな。
「上下関係」の方が強くなりフラットな関係性が持ちにくくなるせいか、「雇用形態の違い」が増えるせいか、単純にオトナとして「敬語を使う」という分別がつくせいか、それら全部により自分側から相手に作ってる「壁」のせいか。
もちろん友人同士やスポーツなどの趣味の仲間同士では、「頑張ろう!」と言いあえる。
だけどなんだかね、
仕事を通して
「また明日!」
「頑張ろう!」
と、こういう対等な言い方でいいあえた相手を持つ「時代」は、私にはもう過去なんだなと。
あの風景を見てから8年だけど、今も「頑張ろう!」と言って別れるような仕事仲間を持っていない。個人で働き「同僚」を持たないフリーランスだから?…いや、たとえもう一度フルタイムの会社員になったとしてもきっと持てない。
私の中の「そういう時代」がもう終わっているからだと思う。
取り返せないものへのリアルな現実感
小学校4年生頃だったと思うけど、生まれてはじめて川で泳いだ時にビーチサンダルが脱げてそのまま流れてしまったことがある。
海やプールと違って川は流してしまったらもう取り戻せない。そういう「不可逆な事」があるというのをはじめてリアルに知った。
40歳を越えて「不可逆=もはや絶対に取り返せないもの」という容赦のない現実のひとつひとつに気がつくことが多くなると、歳を取るのは寂しいことだなと気持ちが少し寒くなってしまう。
こんなことを考えやすくなるのはいわゆる「ミッドライフクライシス」っていうやつなのだろうか?
若さや美しさは歳をとれば失うというのは、小さい頃から周りの大人たちに「見えていた」から知っている。だからそれは仕方がないことで「恐怖」という感覚はあまりない。(今のところ)
実際この年になってみるとそれより、むしろ小さい頃には「見えてなかった」もののほうに、失うことへの恐怖が大きい。
それは「気力」「チャレンジ力」「創造力」「好奇心」など「情熱」が根本にあるもの。情熱が減って「惰性」とか「慣れ」とか「効率」とかに少しづつ振り替えられていく。これらは近づいてからだんだん見えてきたものだ。
そして今見えてきたのは「人との関係性の変化」だ。
でもこれは悪いばかりではなくて、むしろ大人になって良くなったほうが私は多い。
相手を変えようと思わなくなった、争わなくなった、悪口を言わなくなった、距離を置くのがうまくなった、踏み込まなくなった。
おかげで人とのかかわり合いで傷つくことが減った。誰かの怒りや悲しみをそのまま自分の怒りや悲しみにしてしまうことや、良かれと持って掛けた言葉で傷つけてしまうことや、許せないことの多さへの苦しみもずいぶん減った。
昔よりずっと生きやすくなっている。戻りたいとは思わない。
なのに時々感じる、この真綿で首を絞めてくるような閉塞感はなんだろう?
「良い関係」を保つために、結局どんどん距離を取るばかりになってないか?
これって、仕事帰りに「頑張ろう!」と言い合えるようなフラットでラフな関係性をもう自分は持てないかもしれない、という事と無関係ではない気がする。
取り返せないものをどうやって「見て」いくか
日常ではあまり気がつかないけど、何か自分や周りに変化が起こった時にふと、こういう「取り返せないもの」のピースを見つけてしまうのだ。
この「絶対に取り返せないもの」のピースは、実はもう足元にいくらでも転がっていて、拾い出したら寂しくなるばかり。
だから足元に気をつけながらも、できるだけ上を向いていくぞ!という気概で背筋を伸ばすことを意識していかないと、すぐに老け込んでしまう年齢の入り口に自分は来てるってことなのだ。
人生の先輩たちはどうやってこの時期を乗り越えていったのかな。
こういう”オトナになったがための孤独感”というのと、どうやって折り合いをつけていくのだろう?
ああ、こういうことになぜか気がついていろいろ考えてしまうから、今の季節は嫌いなんだ。
新しいことに目を向けていこう。
失うものばかりなのではない。そこに新しい別の何かを入れるスペースができたと考えよう。
前のブログで「都合のいい過去の改ざん」について書いたけれど、それもまた折り合いの付け方のひとつのように思える。
オトナとして幸せに生きていくためには、過ぎ去った過去を見る時の「目」というのを自分なりに作っていかなくてはならないのだ。
今日は話題の映画「ラ・ラ・ランド」を観てきました。この映画もある意味「取り返せないもの」について考えさせる映画だった。ネタバレ書かないようにしますが主人公同士は最後とてもハッピーになっていた。なのにこの湧きあがるせつないものはなんだろう?
さまざまな余韻を残す映画でした。音楽も素晴らしかったです。
今月末には桜の花も咲いてくる。さて、もう春がやってきますね。
映画のサントラCD