前回のブログ記事で少し紹介した、映画「LA LA LAND(ラ・ラ・ランド)」について。
ひとことで言うととても美しい映画だった。少しせつなく、後味もよく、全体的にやわらかい印象の美しい映画。アカデミー賞の数々を受賞した作品ということで話題になったせいか映画館はほぼ満員だった。
ただ、正直言うとストーリー自体はとってもよくある系のお話で、よくある系の演出が使われていて、ラストの章では「ちょっと待って、ここまで王道で来る?」と多少戸惑うくらいだった。
しかし今まではこういう「よくある」系を単に美しく焼き直しただけっぽい映画は好きではなく批判的になりがちだったんだけど、この映画はなぜかあまりそういう気分にならない。むしろ「観てよかった」「おもしろかった」「ステキだった」と素直に思えるのだ。
見終わったあといくつか映画評を読んで、批判的な内容のものを見るとまさに私が思った点と同じで納得するのだけど、それでも「観てよかった」を翻すことはできない。かといって大絶賛感動記事を読んでも少しモヤるんだけど。
なんだろうこの不思議なあと味は?
「ラストでいろいろ考えた」「もう一度観てみたくなった」という感想をよく見るけど、それって「この不思議なあと味をもう一度確かめてみたい」というのもあるのではないかな?
というわけで、自分なりにこの「不思議なあと味」について考えてみようと思った。
※これから映画を楽しみたい方は、この先盛大にネタバレしますので見終わってから読んだほうがいいと思います!
過剰なくらい美しい風景と配色で表現した「よくあるお話」
ラ・ラ・ランドのストーリーのあらすじをいうと、
女優を夢見て大学を辞め、カフェでバイトをしながらオーディションを受けては落ちるという日々を過ごすミラと、将来はジャズバー&レストランを開くのが夢だけど、自分の音楽へのこだわりが強く不器用すぎて売れないジャズピアニスト・セブの出会いと別れの物語です。
ラ・ラ・ランドのストーリーは5章に分けられていて、1章は「冬」で2人の最初の出会い、2章の「春」で2人が再開し惹かれ合い、3章「夏」で2人の夢にそれぞれの進展があり、4章「秋」では進展によりすれ違いと変化が起きて物理的な「別れ」となり、5章「冬」はいきなり5年後になってミアは大女優となり結婚し子どももいる、一方セブは…。
という組み立てになっている。
二人はお互いの夢を理解し応援し合いながら成長していくも、それぞれに訪れたチャンスのタイミングがズレたことですれ違っていき、結局は(おそらく)物理的に離れた距離がそのまま二人の人生も分けてしまった。
こういう「夢を追う者同士のすれ違い話」はもう過去に何万回と観た気がする。どっちかが先にスターになって忙しくて会えなくなり、残った方もその道で認められるようになった頃には、お互いにもう別の人が自分の支えになっていたことに気がついてしまった、的な。
映画では「夢を追う者同士」だったのに「チャンスのタイミング」が違ったことで、結局は「ご縁がなかった」というよくある話を、ほとんどひねらずにストレートに展開してきます。
だけど2人が歌って踊るミュージカルシーンの歌とダンス、背景の美しさ、衣装や小物のカラーの美しさなど、「観て」「聴いて」楽しめる演出がうまくて、セリフ以上に表現するものをそこで伝えてくるんですよね。
- 夕焼けのマジックアワー、街の灯を見下ろす高台での恋の始まりのダンス。
- プラネタリウムでシャガールの絵のように空中を飛びながらの二人の恋の成就のダンス。
- 背景の人々が静止し二人だけが動く、「去年マリエンバードで」のような二人の世界の特別感の見せ方。
映画に精通してない私でも「なんか観たことがある」シチュエーションや演出を巧みに織り交ぜて、ひたすら色彩は美しく、そして耳に残る主題のフレーズのメロディが繰り返し入ってくるうちになんだか「うっとり」してくるんですよね。なんだこれ?
さらにいうと、主演女優のエマ・ストーンがすごく「かわいい」のだ。
痩せっぽちな外見はいかにも頼りなさそうで、そんな彼女がオーディションで雑に扱われる姿はすごく胸が痛む。
でも負けずに日々一生懸命で、笑顔を作り、まっすぐに夢を追う姿がとにかくかわいい。役にとても合っている。
この映画は別に日本人向けに作られたわけじゃないけれど、すごく日本人が好きそうなヒロインだと思う。映画の全体の雰囲気の良さの中で、彼女のこの「かわいい」の貢献度はすごく高いんじゃないかな?
シーンの風景の美しさや、キャラのかわいらしさの表現は、アニメだけど新海誠監督作品に通じてる気がする。「盛り気味」というか「装飾多め」というか、わかりやすく言えば「インスタ映えする絵」的ってうのかな。すごく今時。過剰気味だけどそこが印象的でうっとりさせられるのだ。
時代は現代なんだけど、あまり現代感がしない
あと、ラ・ラ・ランドには時代のよくわからなさってのがある。
もちろん映画の中にスマホも出てくるし、ミアの乗ってる車はプリウスなので舞台は「今」なわけだけど、セブが乗っている車はオープンカーのアメ車?でちょっと古臭い。家で聴くジャズもアナログレコードだ。ミアの着ている服もあまり今っぽくなくドレスは皆レトロなデザインだ。
スマホもほとんど「電話」として使われている。「インターネット」はあまり出てこない。
映画館もシネコンではないしプラネタリウムも少し古臭い。
なのでスマホとプリウスが出てなければいつの時代なのかよくわからない。でもその時代の曖昧さが二人の5年間の空白のリアリティに必要だったのかもしれない。
スマホがあってSNSのある時代、別れた相手の消息はググればわかってしまう。連絡だって取ろうと思えば取れてしまう。共通の友人がいたらイヤでも目に入ってしまう。
この映画の「美しい装飾」のなかに、インターネットはそぐわないものね。
さて
物語はまず最初にセブがチャンスをつかみ売れていくのだけど、そのチャンスは本来のセブの夢ではなく「将来ジャズバーを開く夢のため(=お金のため)」のものだった。やりたい音楽ではないけれど売れたことで収入も多く入るようになった。
ミアはセブが「夢(店とおそらく自分との未来)」のために「今(自分が本当にやりたい音楽)」を引き換えにしていることがもどかしい。セブもそこをミアに責められるのが一番の急所でもある。
ミアは忙しくなったセブとの時間が失われるのがつらいけれど、かといってその為に自分の夢を諦めることもできない。
ミアはその後、自分の夢を掛けたひとり芝居の舞台に立つも酷評されてすっかり自信をなくし、セブが急な仕事で舞台を観に来てくれなかったこともあり、もう傷つくのは嫌だと夢を諦めて故郷に帰ってしまう。
しかしその芝居を見た関係者からオーディションのオファーがあり、セブは故郷に帰ってしまったミアの元へ行き、渾身の説得してもう一度ミアの背中を押す。
オーディションは好感触に終わり、ミアは合格したらパリに行くことになると言う。セブは一緒に行かずこの街に残るという。
そこでお互いに「ずっと愛している」と言うのだけれど・・・。
ラ・ラ・ランドはラストをどう解釈するかの余白がいい
ここで5年後になって、いきなりミアが別の人と結婚して子どもまでいるのに観客は驚くわけなのだ。二人はその後もお互いの夢を追いつつも、まさか別れてるとは思わなかったから。
映画の序盤にミアがバイトをしていたカフェに女優が来て優雅な振る舞いをするシーンがあったのだけど、5年後の「冬」の章の冒頭でも同じシーンがあり、今度はその女優がミアになっている。
まずこの「カフェ店員から大女優になったミア」を表現する演出の手法に既視感がありすぎでまず「え?」と思い、さらにミアが他の男と結婚して子どもまでいるのにもびっくりし、さらにその夫とともに偶然立ち寄ったお店がかつての恋人の店だったなんて、
どんだけベタなんだよ!
と、ここまでがよかっただけに実はちょっと引いてしまったのだけど、ところがこのあと展開で、押し寄せるエモーショナルな波に逆らいきれず一気に押し流されてしまいました。
こんなはずではと思いつつ…。
ある夜、ミアは夫と共にとあるジャズバーに入る。偶然にもそこはセブのお店だった。お互いに目が合う二人…セブが懐かしいピアノ曲を弾く、その間、二人の出会いにシーンが逆戻りし、「二人のこれまでと、別れなかった場合の未来」のシーンが次々と映し出されるのだ。
- 出会った時に恋に落ち?キスをする二人(実際の初対面時にはすれ違うだけ)
- 好きではない音楽の仕事のオファーを断るセブ
- 満員の会場でのミアのひとり芝居、最前列で拍手をするセブ
- オーデションに合格したミアとともにパリへ行き、そこでピアノの仕事を見つけるセブ
- 二人の仕事は順調で、ミアは女優に、セブはジャズバーのオーナーになる
- その後二人は結婚し、子どもも生まれる
- ある夜、二人は通りすがりにジャズバーに立ち寄る、そこでピアノを弾いているのは___?
そこで幻想シーンから醒めてミアの隣りにいるのは今の夫(アッパーな感じのイケメン)。曲が終わり二人はお店を出て行く。振り返ったミアと見送るセブ。思いを込めて見つめ合う二人。
ラ・ラ・ランドの最後の章はここで終わる。
ベタ過ぎると思いつつも、このラストの幻想シーンがやはりとても良かった。
ここの解釈に、それぞれの観客の心に余白を作ってると思うのだ。
- 夢と恋は両立しないのね、と思うも良し。
- こういうタイミングのすれ違いで結ばれなかった恋ってあるよね、でも良し。
- 女はさっさと幸せになるけど男は…でも良し。
この二人はそれぞれに夢を叶えてるわけなんですよね。ミアは有名な女優になり、セブはピアニスト兼ジャズバーオーナーに。
ただお互いがパートナーのままでの「成功」ではなかった。
二人は別れたあとそれぞれに充実した毎日を過ごしていたのだと思う。もしかしたら普段はもうお互いのことを忘れかけていたかもしれない。
なのに突然出会ってしまった夜、一気に時間が巻き戻り「if」が心の中を駆け巡った。
しかしそれは「あの時別の道を選んでいたら」というifというよりは、「二人が結ばれる運命だったら?」というifだった・・・と私は解釈した。
なぜなら最初に出会った日から巻き戻りが始まったけど、実際その場面は「キスしたかったけどしなかった」というシチュエーションではではなかったから。
なのでAではなくBを選んでいたら?というifではなく、はじめからBの運命だったら?というifだった。出会った時にキスをするような二人であったら・・・というような。
幻想シーンは起きなかった過去から始まった。そこから生まれるのは「選ばなかった未来」ではなく「起きなかった未来」だった。「もしも」とは少し違う。
「偶然再会し、過ぎ去ったほろ苦い過去を懐かしく思い出し、ひと時、もしもあの時〜を夢想しつつも現実に帰り、別れる二人」という竹内まりやの曲みたいな…やっと本当のサヨナラできる〜♪的な?解釈のほうが、映画の流れとしては自然なのかもしれないけれど、それだとなんか引っかかる。
せつなさはあっても、偶然またどこかで出会った時に再燃するかもしれないような想いを残したせつなさというより、幻想シーンが一巡して残ったのは「さよなら」の確定的再認識のような気がして。
これからの未来におけるひとつのifが消えたせつなさのような…。
それがあの店を出ていく時の表情だったのかなと・・・(まりや的ではない本当のサヨナラ)
まあこれもそんなふうに感じたというひとつの解釈に過ぎません(しかもあまりロマンチックではないかも)が、でもこういう風に様々に考える余白を残すステキなラストだったと思う。
この余白を埋めたくなる気持ちと、あの印象的で耳に残る音楽と、夕暮れのマジックアワーの色あいの記憶があと味になって、ラ・ラ・ランドをもう一度見てみたいという気持ちにさせるのかもしれない。
※記事中の画像は映画『ラ・ラ・ランド』公式サイトとラ・ラ・ランド : 作品情報 – 映画.comより引用しました。