「クララの車椅子」と、それを壊す人について考える。 | Rucca*Lusikka

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本当に唐突なんですけど、先日、「クララの車椅子」についてふと考えたことがありました。

超有名アニメ、「アルプスの少女ハイジ」のクララです。そういえばクララの車椅子を壊したのって、クララのことをとても大切に思うクララの親でもなく、召使や家庭教師でもなく、もちろん友だちのハイジでもなく、おじいさんでもなく、その時はまだ部外者のペーターだったんだよなって。

しかもペーターが車椅子を壊した理由は、仲が良かったハイジがクララと遊んでばかりいて自分とちっとも遊んでくれなくなった。なのでクララに嫉妬したから・・・だった。

でもペーターが車椅子を壊したことがきっかけで、クララははじめて歩くことに挑戦する気持ちを持つようになり、やがて立って歩けるようになった。

今まで周りの大人はクララのことを本当に心配し、親身に思っていたけど、クララから車椅子を取り上げることは出来なかった。ハイジやおじいさんもクララの臆病を見ぬいてはいたけれど、車椅子を壊すことは出来なかった。

クララは本当は歩けたのに、ずっと自分は「歩ける」か「歩けない」かで、「歩けない」方を信じて歩けないでいた。周りも「歩けないクララ」を許していてくれてた。

・・・あ、アルプスの少女ハイジをまともに見たのってもう何十年も昔なのでかなり記憶はあやしいんですけど、たしかこんな流れでしたよね?

やぎ

なんかこの「歩ける」か「歩けない」かで、「歩けない」方をずっと信じてる状態っていうのがね、クララだけじゃなく結構あるんじゃないかと思ったのです。

そんなわけでもうちょっとそのことについて考えてみます。

歩けない方を信じる理由

前から私がノートでずっと考えていることのひとつ、

「快適センサー」について。

というのがあります。その人の幸不幸の状態って、その人の「快適センサー」の感度によって決まっているのではないか?ということ。

簡単に言うと、例えばネコが一番涼しい場所で寝ているように、自分にとっての「快適」をいち早く察してその状態をつくれること。自分が何を快適と思うかをよく知っていること。五感が冴えてる状態のこと。

住みたい家、着たい服、食べたいごはん、過ごしたい時間、付き合いたい人、やりたい仕事、そういうものに敏感な状態であること。それってそのまま「幸福度」に直結するよなって。

その快適センサーの感度が鈍くなると、人は「不快なもの」に囲まれて「ふしあわせ」に近づいていく。ではどういう状態になると快適センサーは鈍ってしまうのか?その一番の「状態」とは、

愚痴りながらの現状維持状態

だよな、というのが、現状で出した自分が納得する答えです。

本能的に嫌だと思うこと、許せないと思うこと、肉体的な痛み、誰かにずっと申し訳ないと思ってる心の状態。それらを「がまん」してでも「現状維持」のほうを選び、愚痴を言いながらもその状態を変えることができなくなった時、心の何処かが思考を停止する。または痛覚がオフになる。

この状態が続けば続くほど、自分の中の「快適センサー」がどんどん鈍くなっていき、そのうち何が気持ちいいのか、何がほしいのか、何がやりたいのか、何をしあわせだと感じるのか、が、わからない人間になってしまうんです。それっていわば自分の幸せの「地図」を失うんです。

Did she eat all the roses?

そんな大切なものを犠牲にしてまで選ぶ「現状維持」ってなんだろう?

来月のお金?遠い先の老後?独りぼっちへの恐怖?失敗したらもう後がないという恐れ?身近な恐い人のご機嫌?誰かからの自分への期待?

そういうもののために、「今」を失ってしまうんですよね。

もちろん自分一人だけで生きてるわけじゃないので、誰かのためにとりあえず「がまん」をし続けなくてはならない時だってあります。

ただその時も、「とりあえずがまんの現状維持」のはずが、「あきらめの現状維持」になり、「愚痴りながらの現状維持」に変わってきたと思った時は、本当に気をつけて。

あきらめの現状維持=クララの車椅子

に似ていませんか?ここで気がついて車椅子から降りられるか、そのまま愚痴りながらの現状維持になってしまうか・・・。

車椅子を壊すのはだれ?

クララの車椅子が壊された。

これって全くの偶然で単なる「災難」ではなくて、クララにとっての「必然」だったんだろうと思う。なぜならそれが起こったのはクララがハイジの家に来たから、だから。

すっと家に閉じこもってたクララが、自分の快適な環境をそのまま持っていけない大自然の中にあるハイジの家に行くというのはものすごい冒険だったはず。でもクララはハイジに会いたくて、ハイジの住む場所が見たくて行きたくて、がんばって勇気を出して一歩外に出る決心をした。

そしてハイジの家に来て、車椅子ではうまく動けない自然の環境の中に身をおいて、クララは自分の足で歩きたいと思った。

クララにとっての車椅子は、「無くてはならないもの」であり、クララが家に縛られていることを許すものでもあった。勇気を出せば歩けるようになれるはずなのに、クララはそれをずっと出来ずにいた。

Aeropuerto

歩けるようになったら、自分から行かなくてはならない場所、やらなくてはならないこと、会わなくてはならない人が一気に増える。自分自身で決めなくてはならないことだらけになる。

歩けないでいれば、ずっと部屋の中に入られる。優しい人たちに囲まれて、家の中にいる限り不自由なく過ごせる。そのためにやるべきことはたったひとつ、

「歩けるようになりたい」と思わせるものに近づかないこと。

だけどクララはハイジに出会ってしまいハイジを好きになってしまった。ハイジのように歩きたいという欲求が、変わりたいという思いが生まれた。でも外に出るのは恐い。

はじめはハイジを自分と一緒に閉じ込めることで叶えようとして・・・失敗した。閉じ込めたハイジは病んで出て行ってしまった。もう自分がここを出るしかなくなってしまった。

初めて自分の意志でクララは外の世界に出た。

クララが外に出た行動によって、クララの中のいろんなものが一斉に「機を待つ」状態に入った。その状態に入ってなければ車椅子を壊されたことも、ただの「車椅子が壊れた」だけになってしまってたと思う。

クララは「間に合った」・・・本当に引きこもる(愚痴りながらの現状維持状態)より前に部屋を出ることが出来た。そして車椅子を壊されるという「暴力」に出会うことで、歩くことへの「進まなくてはならない道」が刻まれた。

ペーターの破壊行為って、クララにとって、最初の勇気を出したことによって出会えた「セレンディピティ」じゃないのかな?

ペーターのしたことは乱暴で浅はかで子どもじみていて、だからペーターにしかできなかった。ある意味周りのだれもがクララのために出来なかったことをペーターがやってしまった。

ぬくぬくとあたたかい不自由からの脱出

外に出ようとさえしなければ、外に出たいと思わせるものに触れずにいれば、不自由だけど快適で心地よい「クララの車椅子」

それに座ったまま、気がつくと自分が本当に望むことすらだんだんわからなくなって、閉じていく世界とともに自分も閉じられていく。いつのまにか、愚痴の多い、視野の狭い、打たれ弱い人間になっていく。

そういう「豊かな不自由」に縛られていることの自覚さえない状態、というのを考えてしまったのでした。

こういう状態って実感出来ますか?

私はけっこうな恐怖感とともに実感できるのです。それがとても怖いのです。・・・うまく説明できないのですが、「クララの車椅子」に座ったまま動けなくなっていくって、まさにそんな状態なんじゃないかなって。

わかりやすい不幸じゃなくて、ぬくぬくとした安心の中でゆっくりとはまっていく不幸。、不快なものには全て目をつぶって、痛いという痛覚も失って、最後は自分まで失う。これはほんとうに気が付きにくい。

快適センサーの話に戻るけど、クララの車椅子に長く座っていると快適センサーは多分死んでしまう。快適センサーって「自由」な状態じゃないと正常に作動しないのかもしれない。

クララの車椅子に座ってしまったら、時間がたつほど立ち上がることが難しくなる。でも車椅子を壊す人に出会うチャンスはかならずある。自分のセンサーがまだ生きていればそれに気がつける。

ではどんな人がペーターなのか?

  • ペーターは自分を大切に思い優しくしてくれる人の中にはいない。
  • ペーターは自分が一歩外に行動した時に現れる。
  • ペーターは「嫌いな人」または「敵」として現れる。
  • ペーターは人ではなく「モノゴト」や「事象」な場合もある。

そしてペーターに壊されたことを「災厄」ととるか、「セレンディピティ」にできるかは自分次第なんですよね。

もし自分が、クララの車椅子に座ってるかもしれない?という、鈍くなった快適センサーからの弱い弱い最後の電波に気がつけるきっかけがあったのなら、どうか聞き逃さないで。

Mountains of the Grindelwald valley, " Explored :-) "

すみません、今回の記事はなんだか抽象的でしかも少々ポエム?入ってますよね。

誰に向けてのどんな状態に対して、とか・・・あえて具体的には書きませんでした。それでも気がついて欲しい誰かに届くといいな、と思って書きました。

いつかこの記事を見直すかもしれない自分へ、という気持ちもあるかもしれないです。

しかしクララが立った!のあたりのエピソードは、本当に遠い記憶だけで書いたので詳細違ってたらスミマセン(汗)

追記

私の思う「クララの車椅子」とは、自分を親身に思ってくれる人の励ましで降りれる車椅子ではなく、壊されないと降りられない車椅子。そして自分を親身に思ってくれる人には絶対に壊せない車椅子のことです。

極端な例えをすると、愛と裕福さいっぱいの不自由な車椅子。だからこそなかなか気付けないし降りれない。

twitterでつぶやいていたら友人が、そのペーター的役割をする人のことを「黒い天使」と言ってくれて、すごく納得したのでした。人生には何度も外に出て黒い天使に出会わなくてはならない時があると。

車椅子を壊してくれるのは愛なんてないむしろ「悪魔」で、でもそれに黒い「天使」なんて名前つけちゃって、10年後に笑い話にできたら、それはとても素敵なことだなと思います。

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