本屋さんでなんとなく手にとって気になっていた本ですが、ゼツが買ったので読んでみました。内容はタイトルどおり、テレビのアレコレを見ての、銀色さんのいろんな感じた事が書かれたエッセイですが、所々に挟まれたコラムに最近感じた事とシンクロすることが多かったので、それについて書きたいと思います。前置き長いですよw
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先日実家に行った時、ふと自分ちのお茶の葉が切れていたことを思い出し、母に、
「ねー、おちゃっぱ余ってない?」
と聞いたら、ちょうど田舎(長野・母の従妹が住んでいる)からいろいろお米やらお菓子やらが送られて来たそうで、その中にお茶もあったので一袋もらってきました。
「伯母(←私の祖母)が好きだったお茶です」というメモが添えられていました。
祖母はお茶が好きで、(貧乏なのに)高いお茶しか飲みませんでした。そんなわけで我が家は母もお茶が好きだし、私も子供の時からジュースよりもお茶!な子供でした。
祖母が好きだったお茶なら、きっとおいしいお茶に違いない、らっき?♪
と、家に持って帰り、夕食後に早速淹れてみよう!と、アルミの袋を開けると中に白いスベスベした袋があって、お茶はさらにその中に包まれていました。おお、高そうなお茶!!パッケージには「高級玉露」と書かれています。
さて、ほどよく蒸らしたのちに飲んでみます。
・・・・。
・・・・・・・・・。
「・・・なんかエグイ?」
なんかエグイのです。濃く淹れすぎた?いや、それだけじゃないような・・・。ゼツも「び、微妙・・・」と。・・・ううう。
なんでだろう?私の淹れ方がまずかったのか、玉露ってこんな味だったっけ?そういや玉露入りのお茶は飲んだことあっても、純粋な玉露ってあまり飲んだことがなかったかも?
パッケージから香るお茶の香りはとてもいい香りです。パッケージには「優良銘茶推奨」というシールも貼られています。おかしーな??(´・ω・`)
次の日、
リベンジ!と、今度はお茶の葉の量を前日よりも少なめにして淹れてみました。苦味が減りましたが・・・やはりエグイ・・・。
「・・・ねぇ、不味いよコレ」
と、ゼツはいいます。
おかしーなー??・・・でもやっぱり・・・私もおいしくない。。。。(つД`)
次の日、いつものスーパーで買い物の時に、普通のいつものお茶を買ったのでした(>_<)
で、お茶の時間に「今日は結局新しいお茶買って来たよ?」といつものお茶を淹れてたら、ゼツいわく「アナタにしては早い決断」と・・・。
( ´ ・ ω ・ ` ) ヌ?
え???かな?り前置きが長くなりましたが。自分の性格についてちょっと目から鱗だった事になりましたので。自分的メモを兼ねて。
ゼツだと多分、そのお茶が祖母のゆかりの物であろうが、高級なパッケージに包まれていようが、飲んでみて不味いと思ったら「不味い」、と、もう飲まないのですよ。この人は良くも悪くも自分の感覚の「好き嫌い」に本当に正直な人なのです。
私の場合は、でもお茶好きなおばあちゃんが好きだったお茶だし・・・、いかにも高そうなお茶だし・・・、私の淹れ方が拙かったからではないか?、私の舌が高級なお茶の味を解ってないからじゃないか?、などといろいろ考えてしまうのですよ。
な?んか、冷静に考えると、なんでお茶を「不味い」と感じたことで、自分を反省しなくちゃならないのじゃ?なんですけどねぇ(^_^;)
なんか、指摘されて改めて、そういうところに今更気がついたというかなんというか。
例えば昔の仕事で、自分の店のスタッフの事でいろいろ悩んでいて、ゼツにその説明(愚痴)を言ってると、私は大抵、話の先、もしくは後に、
「でも本当はいい子なんだよね」とか、
「根は優しいんだけどね」とか、
必ずそういう「痛々しいフォロー(ゼツ談)」を入れるらしい。
ううう・・・確かに。(>_<)
人と関わりあって生きるというのは鏡を見ながら生きる事なんだなぁ。“寝食を共にする他人の男”っていうのは一番の鏡なのかもしれない。自分の性格は今更なかなか変えられないかもしれないけど、
なにかを「嫌い」と思う事で、罪悪感を感じたり、いちいち自分に反省を強いるなんてアホくさいんじゃないか?
と、思えるようになりました。そんな時、実にタイムリーに出会ったのがこの本に書かれていたこの言葉なのです。ちょっと長いですが引用します。
好きなものを好きと言え、嫌いなものを嫌いと言える人の言葉って信用できる。でもそう言える人はあんまりいない。人に気を遣ったり、しがらみの多い人にはできない。あっちにもこっちにも気を遣っていると、嫌いとかダメだとか言えなくなる。いいことしか言えなくなる。そうしてだんだん自分がなくなる。
自分の思いに反するものには嫌われてもいいというような、どこか強く、いさぎよく、時には冷淡にもなれる人じゃないと、本当に自分を貫くことはできないし、信頼を築いてもらうのも難しい。
(中略)
人がよくて、嫌なことも嫌と言えずに全部しょいこんで苦しんでいる人なんて、私は全然いい人だとは思わない。バカなだけだ。それは八方美人で弱虫な人だ。そしてその弱さが結局まわりの人に迷惑をかけることになったりする。
そういう人は、トラブルの原因は自分にあるのに、無意識に人になすりつけようとするから困る。いつまでも原因が自分にあることに気づかずに同じことを繰り返し、なんでだろう?いつもトラブルに巻き込まれるのは自分がいい人だからみんなに頼られているのかななんて能天気な思い違いさえしながら。
(中略)
本当の意味でいい人であろうとすれば、時には厳しくならなければいけない。その厳しさがない人はいい人ではなく弱い人だ。
(後略)
世の中には「いい人」が多いので、これだけ書くのも相当勇気?が必要な気もしますが・・・。私にはちょっと耳が痛いながらにも、確かにそうだなぁとも思いました。
銀色夏生さん、多分三国志を読んだら絶対劉備よりも曹操が好きだろうな・・・と思う私は相当三国志脳になってますなあ?(^_^;)
「好き」「嫌い」という自分の「感じる事」の一番シンプルなものに正直でいることは、なんとなく「悪い事」のような、「子供っぽい事」のような、「わがまま」な事のような、そんな「縛り」があって、それはオトナとして「正しいこと」と思うのですが、もしかしたらそれって、無意識に何か自分の中の都合の悪い真実を誤魔化そうとしてる「呪縛」の建前なのかもしれない。
あのお茶はやっぱり不味かった。
(↑ここですでに「私には美味しいと思えなかった」に直そうか、との迷いがw)
あ、蛇足ながらお茶をくれた人に「不味かったよ」という事が正しいのかも?と言ってるわけではありません・・・念のため(^_^;)
美味しくなかったことを、自分の中ですぐに認めようとしなかったことにこだわってみたのです。
でもその残ったお茶を、まだしばらくは捨てられない私です。
♪そし?て?僕は途方に?暮れる??:*:・( ̄∀ ̄)・:*: