ほぼ日刊イトイ新聞で連載中の、山田ズーニーさんの
が好きで毎回更新を楽しみにしています。特にここ数回連載してる「自立」をテーマにした話は読んだあと考えることが多いです。今回とてもとてもこの一文が心に残りました。
自立している人の文章には共通点がある。それは、「よい意味で、親子問題を解決しようとしない」ことだ。これは意外と思う人が多いのではないだろうか?
「逆だろう、自立しているなら、親に働きかけたり、話し合ったり、親子で一緒に問題解決に努めるべきだ」と。
私自身、ドラマの影響か何か、かなり長いこと、そう思っていた。だが強い自立を感じる人の文章は、共通して、いっこうに、親に働きかけようとか、親を変えようとか、親と戦おうとしない。
親をどうこうしようとか、
親にどうこうしてもらおうとか、
親と向き合って、話し合って、
手を取り合って、親子でいっしょに問題を解決しよう、
という展開にはならないのだ。逆に、問題解決への執着を、早い段階で潔く手放している。
ほぼ日刊イトイ新聞 – おとなの小論文教室。Lesson644「誰かのせいで何かができない」と言わない自立より引用
「親子問題を解決しようとしないこと」が自立の一歩だということ。
もっとよく話しあおうとか、言えなかった思いをぶつけてみようとか、相手の気持に立って考えることで分かりあおうとか、そうではなく、解決を試みないで、問題そのものを手放すこと…。
これ、すごい思い当たったのです。確かに自分もそれでひとつ乗り越えられてきたなって。
私の父と母は、特別仲良くはないけど別に不仲というわけでもない、まあ普通の夫婦だったと思います。
そんな家で私はのほほんと普通に育ち、普通に学校を卒業し、普通に就職し、普通に家を出て、普通に結婚したので、なのでそこで自分は普通に親から「自立」したと思ってました。
両親は共働きだったので忙しく、あまりかまってもらえなかったけどそれでグレるわけでもなく、反抗期もありませんでした。進路も勝手に自分で決め、結婚も自分で決め(さらに忙しいからと式も挙げず)、なんというか「手もお金もかからない子」だったと思います。兄がいますが兄もそんな感じ。
結婚したあとは、両親は両親で仲良くやっててちょうだいね、という感じでした。しかし・・・自営業の店を畳み両親が年金暮らしになった頃から母が重たくなってきました。
結婚当時私はアパレルのお店で働いていたのですが、実家に近い店だったせいもあり時々母が店に来るのです…。親に職場に来られるのがものすごい嫌でした。
そして「お店にこないで欲しい」と言う自分にさらに嫌気がさすのです。他にもお母さんがよくお店に遊びに来るスタッフさんもいて、彼女たちは和気あいあいとしてるのに、なんで私はここまで嫌なんだろう?なんで母に「来てくれてありがとう」って言えないんだろう?
そういえば自分は、母親と旅行とか買い物とか殆ど行かない。行く気にもならない。悩みを相談したこともない。母と仲が悪いというわけではないし、もちろん母が嫌いというわけではないんだけど・・・この頃になって母からのそういうアプローチが多くて、それが本当に嫌で嫌で仕方がなかった。
自分はもう自立してるのに、母のほうが今さら子離れできなくなってる・・・そう感じてました。
とにかく母が重かった。母を重く感じる自分も重かった。でもまだ父がいた頃は良かった。父が絶望的な病を得てからが本番だった。
父の介護が始まってから
私の父は、ある日突然認知症状がはじまりおそろしいスピードで進行していく病気になりました。まさに1日単位でどんどん出来ることがなくなっていきました。歩けなくなり、話せなくなり、食事をとれなくなり、あっという間に全く動けなくなるという、原因不明で治療方法もないという難病でした。
あまりの病気の進行の早さに、母の気持ちがついていけずパニック状態でした。介護認定を受ける予約をしたけどその日が来るまでの2週間の間に、もうほとんど寝たきり状態になってしまいました。
父の妹たちや近所の人達の手を借りながら最初は頑張っていた母でしたが、ここでギブアップしました。
「お父さんの自宅介護は私には無理!」
父の病期の進行の速さとその症状にすっかりおびえてしまったのです。とりあえずその時はまだ病名もわからなかったので、入院して検査してもらうことになりました。
ところが入院した父に母はひとりで会いにいけないというのです。震えてしまって。毎日かかってくる母からの「つらい」「眠れない」「寂しい」という電話・・・私もパニックでした。
自分としては、母に気丈であって欲しかった。オロオロしないで欲しかった。私が休みの日以外でも父を見舞いに行って欲しかった。娘として「お母さん、お父さんどうなっちゃうの?」と泣きたかった。
だけどもう母の前で父の事で泣くことはできないんだと思った。「お父さん、もうダメだろうね」と、なにかとすぐそう言う母に怒鳴らないようにするだけで精一杯だった。
母は母で、私に実家に戻ってきて欲しかったんだろうと思います。仕事も休んで泊まりでついていて欲しかったんだと。でも私はどうしてもそれはできなかった。
半年後に父が亡くなり、葬儀がおわるまでなんだかあっという間でした。その間ずっと自分は母が望むように母に優しくできない理由について考えていました。優しく出来ないことで自分に罪悪感がたまるのが一番やりきれなかった。
今思うと、
「しっかりした母であって欲しかった」という思いは自分の子供っぽさからだった。もういい年した自分が母に甘えたかったのだと。
「父を毎日見舞いに行って欲しかった」も、「仲が良い両親」でいて欲しかったという子供っぽさだった。父には残念だけど、母にとって「そういう夫」ではなかったということだと。
「許容量が小さいからってそれを責めるのはやっぱり酷なのよ」
これは、私の好きな「海街diary」というマンガで、看護師の長女が、死を待つ患者の姿に怯えてしまいお見舞いに来れない家族のことで言った言葉だけど、これって本当にある話なのです。
父はその前にも何度か別の病気で入退院をしていたのですが、その時は「死」はまだ遠かった。その時は母も毎日病院に通ってた。でも今回は確実に「死」が見えて、母は怯えてしまった。
それを責めても仕方がないのだ。許容量が小さいだけなんだ。そして私もそんな母にモヤっとする許容量が小さい人間なんだ。遠方に住んでたこともあって数回しか見舞いに来なかった兄もだ。まったく似たもの家族だ。
家族でお互いの薄情さを責め合ってもほんとうにどうしようもない。我が家は普通の家だと思ってたけど、実は普通じゃなかった。ホームドラマにはなれない家だった。
自分の家が(自分が思う)”普通の家”じゃなかった、ということに気がつけたことで、今まで引っかかりながらもスルーしてきたいろんなことの辻褄が合っていくのを感じました。と同時に、それをどうにかしようとも思わなくなりました。
「ウチはこうなんだ」と。母もそれでいい、だから私もこれでいいと。兄もべつにそれでいい。多分父もそうなんだ。
お父さん、ごめんね。でもきっとお父さんも「ウチはそれでいい」って思ってるよね。
母が弱かったおかげで助かったこと
父が亡くなったのが2008年だからもう5年たちます。
あの頃は「私ばっかり大変だ。母も兄も頼りにならない!」とカリカリしてたけど、今思うとどう考えても「当事者」で一番大変だったのは母だったなと思います。私は母を手伝ってただけに過ぎなかった。なのに私ばかりがとカリカリして…ホント子供だ。
でもあの時、母の弱さを諦めたこと、母の感情をどうにかしようと思わなくなったこと、ウチがホームドラマ的家族ではなかったということに気づくことが出来たこと。その原因を追求してもどうしようもないこと。ウチはこうなんだからこれでいいと思えたこと。
父の病から浮かび上がってきた家の中の「見ないふりをしてきてたモヤモヤ部分」と、自分なりの折り合いがつけられたのかなって感じます。
おかげで母に対する罪悪感みたいなものから自由になったなと思いました。これも「自立」のひとつかな?と思います。時々かかってくるどんよりした電話への受け流しスキルも上がりました。ここ数年で母もかなり気持ちが元気になってきたのでそういう電話も減りました。
ひとつ、母が弱かったおかげで助けられてたなと思えることがあります。
それは父が完全無言無動状態になった時に、母は「私にはお父さんの自宅介護は無理!」と早々に白旗を上げたんだけど、母が頑張らなかったおかげで結果的に私たち兄妹は物理的にも心理的にも助けられたのです。
母は義妹を頼り、私を頼り、ご近所さんを頼り、ヘルパーさんを頼り、いろんな人に頼った。そしていろんな人に心配してもらえて助けてもらえた。
私が将来何かに困ったとき、あの時の母ほど誰かに頼れるか、助けてもらえるか…さっぱり自信がない。
もう少し依存が上手なら、家族や親戚や友人といった人間関係が残っていてもう少し身の回りの世話をしてくれる人がいるでしょう。
ここまでヘルパーさんだけに重荷が降りかかることはないだろうと思います。この人達はどこかで根本的に誤解をしていると私は思いました。
その誤解とは
「自立とは誰にも頼らないことだ。」
「人に頼ることは恥だ。」
ということだと私は思います。人に頼るまいとすることで、逆に自立から遠のいているのです。
それゆえにヘルパーさんの負担がものすごいのです。そうした高齢者をみて私は
「依存できる人が自立するのだ」
との結論に達しました。(36歳男性)
ほぼ日刊イトイ新聞 – おとなの小論文教室。Lesson649「誰かのせいで何かができない」と言わない自立ー6.読者の3通のメールより引用
これはもうひとつ、ズーニーさんのブログからとても心に残った言葉です。
「自立とは誰にも頼らないこと」ではなく、「依存できる人が自立するのだ」
・・・父の入院先にはたくさんのお年寄りがいました。父が亡くなったあと、使用してた毛布や着替えを持って帰ってもしかたがないので「申し訳ないですが病院で使っていただけますか?」と聞いたら、看護師さんに予想外に喜ばれたのです。
着替えや毛布などを気遣ってくれる家族がいない患者さんも多いのだと。だから助かりますと。
・・・誰にも迷惑をかけず生きて行くなんて絶対に不可能だ。年をとって病気になったら誰でもそう。。いくらお金があったって、自分ができなくなったことを誰かに頼める心・・・例えば新しい着替えの用意を頼める心、頼める人、気づいてくれる人がいないんじゃ仕方がないじゃないか。
母がすぐに周りを頼る人でよかった。無理と思ったことに無理をしない人でよかった。定期的に(時々うざいくらい)電話をかけてくる人でよかった。今はそんな風に思えます。
夏の終わりは父の病院に通った日々のことをよく思い出します。あの頃もうブログを書いていた(匿名でだけど)のですが、過去ログ読むとほんと悪態ついてます(汗)・・・恥ずかしいしみっともないけどこれはこれで残しておこうと思う。今回も済んだ過去のことのように書いてるけど、実はまだまだそんなことはないです。
でも「問題解決への執着を手放したこと」、そのおかげで
「ウチは、母は、兄は、私は、これでいいのだ。父も良かったのだ。今後もウチに限ってはこれでいいのだ。」
と思えたんだなっていうのがわかったこと。そのことを留めておきたいと思いました。