実家にいた頃、兄が横山光輝版の三国志全巻を買っていて、そのおもしろさにどっぷりハマった時期がありました。その後KOEIから三国志のシミュレーションゲームがでてさらにハマりました。
出てくる武将の能力値は物語に沿っていて、たとえば劉備なら能力は低いけどカリスマが高い、諸葛亮は知力が高いけど運が低い、張飛は武力は高いけど知力が低くすぐに火計に引っかかるバカ、など、それぞれの個性が知力/武力などのパラメータに数値で表されていてリアルなのです。
関羽は義理堅いから、捕虜にして忠誠心を上げきらないまま次の戦場に出してもまず裏切らない。呂布は忠誠心を99にしても裏切る、この辺も史実(とはいえ三国演義は脚色多し)のとおりです。関羽は義に厚い人、呂布は裏切りの人生を生きた人。
どんなに強くても裏切るような奴は戦場では使いにくいのです。忠誠心を上げるためのお金もかかるし。
しかしこの「忠誠心」ってなんだろう?
三国志や戦国武将をテーマにした「組織論・リーダー論」的なビジネス書は、昭和のサラリーマンのおじさんには大人気のジャンルだった。
実は三国志を愛読しゲームをやり込みながらも、私はこの「忠誠心」というものがいまひとつよくわからないでいる。これは私が女だからなのか、単に性格の問題なのか。
ちょっとこの事について考えるきっかけがあったのでブログに書いてみようと思う。
意見がわれたとき「人につく」人
山田ズーニーさんがほぼ日で連載してるコラムが好きで楽しみにしてるのですが、先日こんな記事がアップされました。
ほぼ日刊イトイ新聞 – おとなの小論文教室。Lesson742
意見がわれたとき「人につく」人
内容をざっくり言うと、例えばAさんとBさんの意見が分かれてどっちを支持しようかという時に、意見の内容よりも、意見を言った「人」の方につくタイプの人について。
こういう人っている。
Aさんには義理があるからAさんにつく、とか、Aさんの方が人気者だからAさんにつく、とか、Aさんが正しいとは思うけどAさんのこと嫌いだからBさんにつく、とか、CさんがBさんを支持してるからBさんつく、など。
「意見」ではなく「人」につくってそういうことだと思う。
SNSの台頭時期に近い言葉をよく聞いた。「何を」言ったかよりも「誰が」言ったかのほうが大事と。
結局は言ってる内容の質よりも、声の大小、人気のあるなしのほうが人を動かすのだということ。
ではこのAさんが好きだからAさん、義理があるからAさん、人気者だからAさん、という支持の仕方の根本にあるものって、Aさんへの「忠誠心」みたいなものだろうか?
社員に求めるものは忠誠心
「権力」を持ってる人につく、というのは古来よりヒトの習性・生存戦略としてあるもので珍しいものではないと思う。「権力」が時代によって「武力」だったり「お金」だったり「美」だったり「評価」だったりするだけで。
ふと、前にアルバイトで働いていた会社の社長と営業さんのことを思い出しました。
ベンチャー企業の事務所で、そこには営業マンが数人。あとは主婦パートという構成。
ここの社長がカリスマ性があるというか人心掌握術にとても長けた人で、営業さんはみな社長を崇拝していました。社長は普段事務所にはほとんどいないのですが、パートさんには常にお菓子の差し入れを欠かさず、誕生日には自宅にお花を届けてくれました(実際の手配は営業さんがしてたと思うけど)。
この社長が言っていた言葉でとても印象に残っているのが
「社員に一番必要なのはロイヤリティ(忠誠心)だ。どんなに仕事ができてもこれがないヤツはダメ。」
でした。(余談ですがもうひとつは「ネットで一番儲かることは、”ネットで儲かる方法を教える”ということだ」でした。笑)
ああなるほどと納得したのは、ここの営業さんたち、みなとても真面目で仕事熱心なのですが、社長に対して絶対自分の意見を出さない人だったんです。
私はここで販促物の制作をしていたのですが、制作過程で営業さんと、これはこうした方がいいとか、こっちのデザインのほうがいいとか、意見を出し話し合って「ではこうしましょう」とまとまっても、社長がNOと言ったら「そうですよね」で途端に「あっち側」になってしまう。
なるほどこれが「忠誠心」なのかもしれない。
彼こそが自分(社長)の言ったことを100%実行できる部下、なのかもしれない。
不景気ななか雇用してくれて、お昼を何度もごちそうしてくれて、ケーキの差し入れをくれたり、誕生日にお花を贈ってくれたり(※私にだけではない)したのに、結局2年足らずで辞めてしまいました。
私は「忠誠心」がない人間なんだと思う。でもどこか違和感というか居心地の悪さがあったのも確かだった。
自分の意見をもつということ
「忠誠心」ってなんだろう?
自分は今まで働いてきた会社に対して「愛」はあっても「忠誠心」というのを意識したことがなかった。特定の上司や先輩を尊敬はしても「その人の言うことは絶対」と思うことはなかった。
一番長くいたアパレルの会社は「女社会」だったので、「男社会」的な政治を含んだ縦の上下関係があまりなく、ある意味それがいいところだった。店舗という小さな島単位だったからかもしれないし、パートやアルバイト・派遣と、働き方が多様だったからかもしれない。
正社員というポジションに対する執着が今より薄い時代というのもあり、定年までここで働こうという人は少なかった分、社内政治力をヘンに発揮する人は少なかった(いなくはなかったけど)。
なのであのバイト先で初めてオトコ社会的な「忠誠心」を見たような気がする。カルチャーショック。
あの「自分の意見を持たない」という徹底した姿勢、あれは美徳なのか、思考停止なのか?
彼らはまさに「忠誠を誓った人につく」タイプだろう。そのくらい「社長にYES!」の姿勢は徹底してた。「社員にはロイヤリティが一番大事」という社長とはまさに相思相愛なんだと思う。
これは会社人だからではなく、自分の意見よりも親や夫の意見を尊重するタイプの人にもいえるかも。既婚の女ともだちから「主人が反対しちゃって」と約束を反故にされた覚えのある人は少なく無いと思う。
忠誠心と自分の意見と
私は自由がいい、やれるなら自分の裁量で出来る仕事がしたい、自分の意志で自分の行動は決めたい。そして対面する「そこにいるあなた」とでやりとりが出来る人を、友や仲間に持ちたい。
「忠誠心」を他に持ってる人は苦手だ。そこに「あなた」がいなくなるから。
スナフキンの名セリフである
あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ
ズーニーさんの文章を読んでこの言葉をふと思いだした。
でもきっと先の営業さんもそうだけど「自由を失ってる」とは思ってない気がする。心底社長を尊敬していて、社長の思いの実現を自分の仕事としているのだろう。それは決して間違ったことではない。それだけ信じられる人がいるということはある意味羨ましい。
オトコはこういう関係にロマンを感じるのだろうか?だからこそ昔の戦国武将と昭和のオトコ社会が通じ合うのだろうか?
いやオトコだからって問題じゃないかな。オンナもグループ作って○○主任派とか○○ママ派とかありそう(成人後に現実で遭遇したことは自分はないけど)。
「人につく」ことに、ひっかかるもう1つは、
「この人のために」と、加勢して発言するとき、
そこに「正義感」みたいなものがまぎれこむこと。「友だちを守るため」とか「恩義を返すため」とか、
そういう正義にくらむと、反対意見に容易にかみつき、
その発言に傷つく人が見えなくなってしまう。
ああこれだ、私が感じていた違和感。忠誠を尽くす人はそれに反する人に対してすごく頑なになるというか、100かゼロかみたいになってしまう。そしてそこに「あなた」がいないのだ。
それでも「あなた」の意見を聞きたがる私は「あなた」にとっての敵になってしまうのだ。
なんかすごく納得がいった。
忠誠を持つ人、その関係性はきっと素晴らしいのかもしれない。しかし私のような人間にはきっとわからない世界なんだろう。
どこまでも揺らぎながら、
考える自由を手放さないでいたい。どのような議論にあっても、
安易に人の意見や論点にのっからず、自ら「論点」を起こせる人でありたい、と私は思う。
自分の心に拠って生きていくというのは徒労が多いことでもある。自分は自分以上にはならない。だって自分だから。そして自分というのはたいがいアホだ。だから回り道ばかりだ。でも自分でちゃんと考えないといけない。考える自由は手放したくない。
揺らいでも回り道が多くなっても、じゃあその分長生きすればいいじゃないか。なんて気楽に楽しみながらね。
まあそんなわけで三国志はおもしろいのであります(ムリヤリすぎるシメ)
参考書籍
三国志は長ければ長いものほどおもしろいのです。
あとがき
結局自分でもちゃんとした答えを出せてないテーマでした。ただ、考える自由を手放さないでいたいという言葉にとても共感しました。あ、横山三国志では趙雲が好きです。ドカベン顔でいいのです(笑)ゲームの三国志ではいつも孫策でプレイでした。