「美しい50歳が増えると、日本は変わると思う。」
昔、資生堂の化粧品のCMでこんなコピーがありました。コピーライターは岩崎俊一さん。
このコピーのCMやってたのって10年くらい前だったかなぁ?・・・この時言ってた「日本が変わると思う美しい50歳」とは、まさかいま流行り?の「美魔女」のことではなかったはずですよね。
たしかに自分が20代の頃は、「50代の美人」というのは単純に「50歳には見えないくらい若く見えてきれい」な人のことだと思ってた。そしてそれは芸能人か水商売か、うんと上流階級のマダムの世界にしかいない人だった。
自分は今40代で、あの頃「誰がどこから見てももうおばさん」だと思ってた50代も遠い先の話じゃなくなってきたんだけど、自分がイメージする「50代女性」というのがいまだに自分の母親くらいの年齢に思えてしまうのです。いや別に自分を若く見積もってるというんじゃないけど・・・。
こんなこと言ってるとイマドキの20代とかに「青春ゾンビ」と言われるような、典型的「バブル世代」と思われちゃうのだろうかw(バブルの恩恵なんてその時代の人すべてが受けてたわけじゃないんだけどね)
とはいえもしかしたらやっぱりどの世代でも、今の自分の歳を「もっとオトナだと思ってた」と感じるものかもしれない。
妻たちの関心は「夫」「家族」から「私」へ・・・らしい。ふーん。
ちょっと気になった記事がありました。
『婦人公論』に見る、変わる妻たちの関心事 『婦人公論』三木哲男編集長に聞く
「婦人公論」という超老舗な女性雑誌の編集長へのインタビュー記事です。出版不況の中において毎号15万部の売上があるんだとか。
ここ10年~15年の間で、反響を呼ぶ特集のテーマは変わってきているんだそうです。例えばこんな具合に。
1998年から2004年にかけて特に売れた号の巻頭特集は、98年6月「もう一度、夫を見直してみよう」、98年11月「子どものいる喜びと悲しみ」、99年7月「嫁と姑はわかりあえるか」、05年3月「家族と心が通じていますか」など。
夫、子ども、姑など、家族と自分の関係性について問うテーマが売れ筋だったことがわかります。
ところが、これらはここ5年間で軒並み売れなくなりました。代わって売れているのは、08年5月「捨てて始まる、新しい私」、08年10月「離婚しないでいる妻たちの本音」、09年5月「40代から備えるひとりの老後」、11年2月「妻たちの婚外恋愛白書」、13年2月「夫を捨てたい妻たちの本音」……。
――つまり、「家族」から「私」へのシフト、ということでしょうか。
そうです。かつては、主婦である読者は自身が人生の主人公ではなく、ほかの人との関係性の中で幸せを求めていました。それがここ5年で打って変わって、興味が思い切り自分自身に向いたんです。
ちなみに、過去5年間で最も失敗した号は、08年11月「いまから夫をいい男に変える」でした。これは、出した瞬間に「なんでこんなつまらないテーマなの?」と、ひどい言われようでした。とにかくタイトルに「夫」とつけるとダメです。「夫を捨てる」なら売れるんですが(笑)。
『婦人公論』に見る、変わる妻たちの関心事 | 教えて編集長! 「買いたい」女子の射止め方 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイトより記事引用
ここにあげられている「最近の婦人像」というのはこういう感じらしい。
「この歳で恋愛の話をするのは、みっともない」という考え方が主流でしたが、今は雑誌などさまざまな媒体が後押しする動きもあり、「いつまでも美しく、女であり続けたい」と考える人が増えている。
直近の心配事についても、「夫が定年退職して、ずっと家にいるようになること」と答える女性は、本当に多いですよ。奥さんにとって、子育てが終わって、ひとりで自由に過ごせる“黄金の10年間”が、夫の世話で終わってしまうわけですから。
これにかぎらず「読み物的」な婦人雑誌って、最近というよりずっと前から「夫には実はうんざり」&「自分もっと輝きたい系」のご婦人がターゲットで、20年くらい変わってないんじゃないかという印象でした。亭主元気で留守がいい?っていうCMが流行ったのって、もうそのくらい前ですよね。
世の中には一定数のこういうご婦人がいて、その層向けの雑誌やドラマが定期的に流行するなぁと。
なので2,30代の頃の自分にとっての、ひと世代上の「ご婦人」のイメージってそんな感じだったんですよね。でも今この雑誌のターゲットの「ご婦人」世代こそが自分だったりします。えー?そうなの??という違和感はやっぱりあるなぁ。
女性誌に取り上げられるような「美しい50歳」だと、やはり結婚して子どももいて、社会に貢献できるような仕事も持ってて、毎日活き活きと暮らしを楽しむことをしてて、さらに身ぎれいな美人・・・ハードル高すぎる。ていうかいつだって女性誌はそういう完璧超人的な人を「あこがれの女性」の位置においている。
「こうなりたい姿」に憧れさせ焦らせて、現実の不満への共感を誘う、そんな雑誌がいつの時代も売れる雑誌なのかもしれない。
SNSで感じる「大人」の振る舞いについて。
さて、TwitterやFacebookなどのSNSをやってることで、遠くに住んでて普段はめったに会えない友達や、一回会って名刺交換したけどその後一度も会ってない人や、まだ会ったことがない人でも、その人の日常や日々思ってることなどに触れることが多くなりました。
普段そういう話をしあうような深い付き合いじゃない人でも、その人の考え方や行動、今の暮らし方、などがこぼれるように伝わってくる・・・これってSNSならではのことだと思います。
半年くらい前、一時SNSとの向き合い方にちょっと悩んでいた時期があって、それはつまりすべての人に「同じ顔」「同じ距離」で向かうことによるストレスというか・・・そのことをブログに書いたことがありました。
自分のポジティブな面もネガティブな面も、付き合いが浅い深い、古い新しい、相手の今の幸不幸の状態、を問わず等距離に届いてしまうということ。何らかの意思や意見を持った発言を距離を問わずにするということは、どうしても距離が近かった人ほど傷つけたり不快にしてしまう可能性があるんですよね。
今はもうけっこう吹っ切れて、逆に、ブログやSNSで「自分がどういう人間でどういう考えを持っていて、どういうことをしたいと思ってるか」を発信することは、潜在的に本当は私を嫌ってた人を自然に遠ざけてくれて、ある意味「断捨離」が自動で出来た・・・くらいに思えるほどずうずうしくなれましたが(笑)
嬉しかったのは何も言わずともわかってくれて応援してくれる人がいたこと。「応援」というと大げさだけど、ずっと変わらず付き合ってくれる「遠くにいるけど暖かい人」の存在。少しの冷たい反応で凹んでやめてしまうより、こういう縁の暖かさを感じていたいなと。
この「遠くにいるけど暖かい人の気配がわかる」不思議さってSNSならではですね。ネット上の関係なんて、書き込まなくなったら消えてしまう儚い縁だと思っていたけれど、最近は、それは昔のような「儚いもの」ではないような気がします。リアルで近くに居たって儚い縁は儚い。
SNSで不可避な「等距離によるデコボコ感」に対する最適なクッションをいつも自分側で持っていて、前面に出やすいポジティブさをそれがその人の全部だと思わず、自分がネガな時の凌ぎ方もよくわかってる「大人」な関係ならではかもしれませんが。
若いころは自分が辛い時に肩をたたいて声をかけてくれる人の「優しさ」にしか気がつけなかったけど、最近はほっといてくれる、いつもどおりに接してくれる「優しさ」というのに「気配」で気づけるようになったと思う。
直接の慰めや励ましじゃなくても、SNS上でいつもの話しにいつもの返事をしてくれる、遠くの友達の「暖かい気配」にどれだけ自分は慰められただろう。
こういう「付き合い方」は若い頃は出来なかった。たぶんSNSがその頃にあっても出来なかった。
おとなになって、年をとってよかったなと思えることはこういう「付き合い方」がちょっとできる自分になれたこと、できる友に恵まれることかもしれないと。
と、そんなことを先日の佐々木俊尚さんのFBでの投稿に共感してつらつら考えたのでした。
日本を変えるような「美しい50歳」ってどんな50歳なんだろう?
さて、かなり遠くまで来ちゃいましたが(笑)美しい50歳について。
以前、おもしろく読んだ本、湯山玲子さんの「四十路超え!」にあったこのフレーズをよく思い出します。
止まったまま我慢してやり過ごすには先の人生は長すぎるし、冒険してもその先は必ずしもバラ色ではないかもしれない。止まるも地獄、進むも地獄なのですが、経験上ここで意識的に何らかの第二エンジンをふかさなかった人は、60歳以上の本格的な老いに向かって、早過ぎる精神的退廃を迎えてしまうことになりまねません。
湯山玲子著「四十路越え!」より引用
40代で第二エンジンを噴かせ!
年をとって本当に怖いのは肉体的・美容的退廃よりも、「精神的退廃」だと思うんです。私がノートを書く背景にはこの危機感があります。
- 私のノートについての記事はこちら→MYノート術
何をやっても夢中になれない、友だちと会っても話題がテレビや人の噂話しかない、食べ物や買い物くらいでしかストレスを解消できない、体を動かすのはめんどくさい、本を読んでも映画を見ても「まあまあ面白かった」でおわり。
若い時はそうじゃなかった・・・若い時はもっと毎日が楽しかった・・・若くあらねば!の果てがもしかして「美魔女」なのかなぁ?
「美しい50歳」はきっとそうじゃないよね。
いろんなことに夢中になれて、話題が豊富で、どこにいても自由自在で、周りを楽しくできる・・・そんな「おもしろき50歳」が、「日本が変わるような美しい50歳」じゃないかな?男女限らず。
堅苦しい「常識さん」でもなく、「正義正論の権化さん」でもなく、自分自身の意見がきちんとあって、それは曲げないけどそれで人を不快にもさせない。更にちょぴっと毒も持ってたりして。
SNSでわたしが「おもしろい」と感じる人は、やはりそれぞれ仕事やプライベートで第二エンジンをみんな噴かしてる人だな。そういう人は大抵おもしろい。多分自由なんだと思う、心が。
もちろん若い人の尖った発言もおもしろいけど、同年代のおもしろい人は投稿もつぶやきも、どうってことがないことでもおもしろい。別に毎日ギャグを言ってるわけではないし、うんちく語ってるわけでもないし、名言ばかり言ってるわけでもない。ちょっとした物の見方やその人なりの捉え方がおもしろいんだよね。
そういう滲みでる感じのおもしろさや、ふとした会話の優しさって、40を過ぎたら持って生まれた性格だけではなくて、人生から蓄積されたもののほうが大きいと思うのです。どれだけ経験してきたことを自分の中で「おもしろく」変換させてきたか。この「変換」があるかないか・・・ですよね。苦労してきたから優しくなれた人と苦労しすぎて余計ひねくれた人がいるように。
そういう「自由自在」な50歳が増えたら、絶対日本は変わると思う。
そんな50歳になるための、雑誌や読み物がもっとあってもいいのにね。美魔女や青春ゾンビ向けばかりじゃなくてさ。「変換」することに気づかせるもの、こと。やはりそういうのって古今の映画や小説の奥底にあるのかな。
おもしろい人をもっと知りたい。そんなわけで個人ブログやTwitterで、そういう「おもしろい人」を自力で探すのが最近の趣味です(笑)
参考図書
今年、佐藤浩市さん主演で映画化もされた宮本輝さんの小説。
「大人とは幾多の経験を積み、人を許すことができ、言ってはならないことは決して口にせず、人間の振る舞いを知悉(ちしつ)していて品性とユーモアと忍耐力を持つ偉大な楽天家」
理想にしたいと思える大人の姿がここにあります。
「面白いことはたいてい無理をしたときに出合える、と言っていい。無理をせず、安全圏で行動していると、もはや心はワクワクする機会を失い、非活動の坂を転げ落ちてしまう。」
ドキッとしながらも共感ポイントがたくさんあった本です。2011年にこの本の感想を書いたブログ記事はこちらです。→「四十路越え!」