ひとつの自分ですべての関わりの人に対するということ【ブログ編】 | Rucca*Lusikka

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横浜のwebデザイナー&ライターRucca(ルッカ)のサイトです。ノート術で人生を楽しくおもしろくすることをテーマにブログを書いてます。

先日Twitterを眺めてて、ちきりんさん@InsideCHIKIRINの一連のツイートからいろいろ感じることがありました。

どんな内容だったか簡単に言うと、facebookとTwitterの付き合い方の違いについてです。ちきりんさんのフォロワーの方からいろんな意見が寄せられていました。

 

「FBは村社会っぽい」「毎日年賀状を書いてる感じ」「誰かの地雷を踏まないように結局食べ物の写真ばかりに」「老若男女いるはずなのにママ友社会に近くなってる」「Twitterは身バレしたくないので秘密のアカウントで使っている」

 

などなど。

SNSの使い方、付き合い方で少しずつストレスが溜まってたり、使い分けを試行錯誤していたりすることって、みんなあるんだなぁって思いました。

 

 

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実は自分も今、SNSでの人との関わり方の難しさというか、そういうものを感じることがあって…とてもタイムリーだったというか。 ? そんなわけで思うことをいろいろつぶやいていたら私のTL上でもいろんな意見を頂くことができました。 残しておきたい大切なご意見ばかりだったので、はじめてTogetterにまとめてみました。

 

? ひとつの自分ですべての関わりの人に対するということの、いい部分と難しい部分。?

?

 

9月27日現在、2700を超えるViewを頂きました。また、公開後にもTwitterで新たなご意見を頂くことができてとても嬉しかったです。

 

Twitterを始めて、さらに1年後にfacebookをはじめたころは、まだFBのフレンドもTwitterで相互フォローする人も、リアルな友達とのやりとりが中心だったmixiからの延長でした。

自分がフリーランスになったこと、新しい仕事、新しい仲間がほしいと思ったこと、これからブログに力を入れてやっていこうと思ったこと、などから実名&実顔に切り替え、普段の友達との付き合いの中ではあまり自分からは話さないようなメッセージの発言もするようになりました。

そして新しくそれに共感してくれた方、また学びに出かけた場所で新たに出会った人たちとの交流も増えたことで、Twitterのフォロワーさんやブログの読者さん、FBでのフレンドさんが少しづつ増えていきました。

 

そんな中最近思うのは、そういう【今の私】の発言することは、

 

もしかしたらそれは古い友人にとっては「変わってしまって少しうざい私」だったのだろうか?

私の発したある種の言葉が、他意はなくても無神経な無配慮な言葉としてダメージを与えてしまっていたのだろうか?

 

ということです。

 

 

本来、人って「いろんな顔」があって、夫といる時の私、実家にいる時の私、夫の実家に行った時の私、学生時代の友達に会った時の私、昔の会社の時の同僚といる私、趣味の友だちと一緒にいる時の私、ネトゲやってる時の私。 たくさんの顔があることはある意味「自然なこと」。

 

なのにSNSって「顔ひとつですべての人に向かってる状態」なんですよね。

 

高校の友達と、前の会社の上司と、ネトゲ友達と、さらに最近悲しいことがあった人、最近幸せいっぱいな人、全てに同じ顔で向かう・・・こういうコミュニケーションスタイルはSNS以前にはなかったことなんです。

?

 

「同じ自分」として接するということは、裏表がないフェアなことと思っていました。そして「同じ自分」で発言できるというのはある意味ストレスを軽くすることだと。

 

確かにひとつのグループの中で「同じ自分」は問題ない。でもグループが増えてくると…。

 

例えばサッカーの話題をし続けると、サッカー好き同士のグループAへの発言としてはいいけど、他のグループからは「●●さんが私にはよくわからない話を延々としてる」事になってしまう。

または、恋人と別れてしまい帰りの電車の中でその彼氏のアカウントと「友だち」の状態を切った。だけどその彼が共通の友だちの「ラーメン食べた!」の写真に「オレも食べたい!」とか無邪気にコメントしてるのが見えてしまう。

 

・・・SNSとは誰とも「等距離」であること、見せるのが「同じ自分」であること、そして近しい人の「私の方向へ向いてない顔」が見えてしまうこと、「そういうもの」なんですよね。

 

以前ある人から聞いた話で印象的だったのが、「付き合う人や所属するコミュニティによって、すこしづつ違う自分がいる」というのは、「無理な状態」なのではなく実は「自然な状態」であって、「違う自分」の数が少ないというのは精神衛生上実は良くないことだということでした。

 

精神分裂症的な病気は、いろんな場所で違う顔をしすぎることでなるのではなく、自分のバリエーションが少ない(=所属コミュニティが狭い、少ない)からなる事のほうが多いんだって。自分の居場所が少なければ少ないほど、自分のバリエーションが減って、息苦しくなると。

 

タイミングよくリアル友達が私の一連のツイートをたまたま見ててこんなつぶやきをくれました。

 

 

さらに頂いたのが

 

 

などなどです。なるほどなぁと・・・。

 

「たくさんの顔を持つ自分」が「同じ顔を見せてしまうこと」

 

「自分をキャラ化する」ということは、SNS上は必要なのかもしれない。でもそれは「その顔だけが自分じゃないのに」というジレンマや、同じ顔でいることの窮屈感をもたらすことになります。

SNSをビジネスツールとして使ってる人や、フォロワーが万人単位でいる方などはこういうストレスはもう「イチ抜け」してるのかもしれませんね。

これは一般人がある意思を持ってSNSでリアルを広げようとする時にまず最初に通る試練(おおげさ?)かもしれない。

 

このTogetterをまとめた後に、関連がありそうかも?と、気になっていた本を読んでみました。芥川賞作家の平野啓一郎さんの『私とはなにか「個人」から「分人」へ』という本です。

 

 

これは・・・すごいタイムリーでした。

本の中の「分人」とは、個人をもっと分けた、関わる相手ごとに変わる自分(その人に見せる姿)のことをいいます。

 

一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はいない。

個人を整数の1とするなら、分人は、分数だとまずはイメージしてもらいたい。

私という人間は、対人関係ごとの幾つかの分人によって構成されている。そして、その人らしさ(個性)というものは、その複数の分人の構成比率によって決定される。

分人の構成比率が変われば、当然、個性も変わる。個性とは、決して唯一不変のものではない。そして、他者の存在なしには決して生じないものである。

 

さらに

 

「3年B組金八先生」のような学園もののドラマでは、主役になる「いい先生」は、生徒一人一人に対して柔軟に分人化する。

グレた生徒とは、その生徒と最もうまくコミュニケーションが取れる分人になる。優等生とは、また違った分人で接する。そのことに、生徒が信頼を寄せる。

一方で、「悪い先生」は、どの生徒に対しても、教師としての職業的な分人だけで接する姿が強調される。生徒というグループ向けの分人に留まっている。どんな生徒に対しても平等というのは、同じ顔で接する、ということではない。同じように相手の個性を尊重して分人化する、ということだ。

(略)私たちは、尊敬する人の中に、自分のためだけの人格を認めると、うれしくなる。他の人には違った接し方をしてくれることに甚く感動するものだ。

ロボットと人間の最大の違いは、ロボットはー今のところー分人化できない点である。

 

よく、「分人」という考え方は、結局「八方美人のススメ」なのか、と言われることがある。しかし、むしろ真逆である。

(略)八方美人とは、分人化の巧みな人ではない。むしろ、誰に対しても、同じ調子のイイ態度で通じると高を括って、相手ごとに分人化しようとしない人である。

?私とはなにかー「個人」から「分人」へ 平野啓一郎著より引用

 

いろいろ引用しましたが、「本当の自分」が中心にいていろんな人に対していろんな顔を持つ、ではなく、いろんな人に向けたいろんな顔が「自分」であるということ、かな。他者からの鏡で見えるのが自分。

 

まだちょっと未消化な部分もありますが。

 

SNSは分人化するということには向かない。

そして分人化できないことで「あの人の別な一面」が見れるという楽しさもあれば、「あの人」が自分の嫌いな人と仲良くしてるのを見せられる、というおもしろくなさもある。

 

でも「そういうもの」とわかれば、ある意味気をつけながらも「割りきって楽しく使う」という事もできるだろう。人の、自分に向いてない「分人」が目に入っても気にならなくなるだろう。もしかしたらデジタルネイティブで参加コミュのまだ少ない10代では、その辺はもう「見えてあたりまえの感覚」なのかもしれない。

 

むしろ参加コミュの数や、付きあう人の幅が個人によって大きくバラつきのある30?40代くらい(特に女性)がいちばんややこしいんじゃないかな?とか思ったり。

 

本音用隠れアカウントをつくる、仲の良い友だちだけの秘密グループだけで発言する、または友だちつぶやき用のアカウントをつくる、そんな分人化対応もあるだろう・・・(そういう意味では、私はあまり使っていませんがGoogle+のサークルって分人向けなのかもしれない。FBより早かったら日本ではこっちのほうがメインになってた可能性も?)

 

でもそういう「閉じる」方向に行くよりは、自分はやはり「広がる」方向を選んでいきたいです。SNSの自分もまた、キャラ化させるのではなく、ひとつではない自分の「SNSでの分人」として。

どこかでもしかしたらその「キャラ化」へのタイミングが自然にできてくるのかもしれないけど、それまでは。

 

たくさんの顔があっていいということ、人のそれが見えること、自分のそれが意図しない人にも見せてしまうこと、そんなことはSNSを使う限りもう「あたりまえ」のこと。

 

その見え方を自分に最適にカスタマイズできるように、他人もまたその人に最適にカスタマイズするのだということ。そのことで一喜一憂しないこと。

 

そんなことにあらためて気がついたり。

コメントくださった皆さまありがとうございました。あとこの本も同時に読みましたが、オススメです。web、SNS、リアルと様々なレイヤーでの、「友だち」や「仲間」についていろんなデータを元に分析されています。

 

 

 

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