世間ではなく「社会」に届く言語で話すということについて | Rucca*Lusikka

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日々の気づきをノートに綴っていく。その時間が自分の未来をよりおもしろいものに変えていく。そんな気づきの一滴をすくって描くRuccaのブログです。Lusikkaはフィンランド語で「スプーン」のことです。

「言語を手に入れる」「キーワードを手に入れる」「仮面を手に入れる」

ということについて最近良く考えます。なんのこっちゃ?かもしれませんが、この3つってどれも自分が劇的に変わる「きっかけ」になることだと思うからです。

よく「まわりを変えるためにはまず自分から変わらないと」と言いますが、「自分を変える」って難しいですよね。決意だけで変えられるものなら苦労はしないです。

私は自分を変えるものは自分の努力や心がけだ、とはあまり信じてなくて、むしろ「偶然」の外的要因の方を信じています。いいことでも悪いことでも。

ただ、「起きた時」にそれに気がつけるかどうか、反応できるかどうか、にだけは敏感でいたいと思ってます。このブログでも何回か書いているけど、そのためのセンサーだけは鈍らせないで生きていたいなと。

参考エントリー:幸せって「快適センサー」の感度で決まるのではないか?の考察 | ルッカ*ルシカ ブログ

で、上の3つについての話ですが、今回は「言語を手に入れる」について、考えたことを書こうかと思います。

 

沖縄カルタ

写真は本文とはまた関係なく…沖縄カルタ。ちょっとかわいい。

このブログは2012年の2月にリニューアルしました。マイペースな更新ではありますがSNS時代になったということもありまして、それ以前に書いていたブログの時より、より多くの方に読んで頂けています。

また、自分はフリーランス(+出稽古)で働いているのですが、頂いてる仕事のほとんどは直接的にも間接的にもこのブログから生まれています。コネもなければ営業力もない自分にとって、唯一の営業ツールがこのブログの「コンタクト」ページです。

読者のほとんどが友だちや知り合いだけだったマイナーブログが、仕事の窓口になるくらいまで成長できた一番の原因は、リニューアルの時に「言語」を手に入れて、それを使い続けてきたからです。

いや、ブログを変えられた一番の理由が「言語を手に入れたんだ」ということに気がつけたのは最近です。いくつかの本を読んでやっとそれが人に伝えられる言葉になるまで明確になりました。

今回特に紹介したいのはこちらの本です。

 

舞台演出家の鴻上尚史さんの「コミュニケイションのレッスン」という本です。この本はタイトル通り、「コミュニケーション(本の中ではコミュニケイションと表記されています)」をテーマにした本です。

この本はざっくり言えば「コミュニケーション」のハウツー本なのですが、従来のものと違うのは、「世間」と「社会」という2つの世界で生きる時代の「コミュニケイション」について書かれているところです。

それは何が違うのか?

昔の日本人はみな利害関係のある見知った人たちで構成する「世間」の中で生きてきた。村社会というのは「世間」です。明治以降近代化して欧米から日本に「社会」というものが入ってきた。知らない他人が多く集まってできたのが都市です。そこは「社会」になりました。

しかし馴染みのある「世間」をなくすことは出来ず、都市では「日本型企業」が「世間」の代わりとなり、年功序列&終身雇用で、新しい「世間」を作ってきました。

だけど今、IT化とグローバル化の波が押し寄せ、その「世間」もまた壊れようとしています。いや、もう中途半端に壊れています。

そんな中途半端に壊れた「世間」と、押し寄せてくるガラス張りの「社会」の中で、上手に生きていくのに必要なスキルが、「正しい言語」をつかい「正しい振る舞い」を身に付けること、だというのです。それが「コミュニケイション」であると。(ここでの「正しい」は「最適化された」という意味での「正しい」です)

では、正しい言語って一体何のことを言うのか・・・?そもそも「言語」ってどういうこと?何が違うの?

そんなわけでちょっと本の内容を紹介します。

壊れた世間と社会との両方で生きていくこととは。

例えばグループ旅行のおばちゃん達と電車で出会うことがあります。先頭のおばちゃんは、ダッと電車に駆け込んで座席を確保し、「山田さん!ここ、ここ!開いてるわよ!」と叫んだりします。その後ろ、続いて乗ってきた乗客は、「私が座る場所なのに」と困惑した顔でおばちゃんのその行動を見ます。けれど、そのおばちゃんは、その乗客の戸惑いを完全に無視して、後からやってくる仲間を待つのです。

このおばちゃんはただの礼儀知らずなのでしょうか?後ろから乗ってきた乗客を無視しても当然と思う冷たい人なのでしょうか?

そうではないでしょう。おばちゃんは、自分の仲間、つまり「世間」を大切にしているのです。このおばちゃんは「世間」の中では、親切な、仲間思いの、温かい人のはずです。

この時、続いて乗ってきて、ムッとした顔で立っている乗客は、おばちゃんにとって「社会」です。つまりは、なんの利害関係も人間関係もない他人なのです。

鴻上尚史書「コミュニケイションのレッスン」より引用

この「真っ先に乗り込んで仲間の席をとるおばちゃん」の話ですが、これはおばちゃんが「世間」に生きている人だからということです。世間の中では仲間のために席をとる気の利いた人です。しかし社会の中ではちょっと迷惑な人です。このおばちゃんがこのまま世間のルールで社会に出たとしたら、本人も周りもストレスが溜まるでしょう。

電車の中で化粧をする女性も「世間」を生きてる人だからです。自分と直接関わりのない「社会の人」はその人にとっては「どうでもいい人」なのです。しかし車内に彼女の会社の上司が乗ってきたらそこはいきなり「世間」になります。会社の上司に見られながら平気で化粧を出来る人はなかなかいないでしょう。

例えば会社での会議は「社会」です。そこで自分の意見を言えない人も、会議が終わったあとの給湯室で「自分は本当はアレどうかと思うんだ」などと本音を言うことがあります。知らない人も多く出席している「会議」は「社会」で、気の知れた同僚が集まる給湯室は「世間」だから本音が言えるのです。

以上、第二章の「世間」と「社会」に書かれた内容の大意

マジックアワー

川面に映る空が綺麗だったのでパチリ

「世間」と「社会」の違いについて、ちょっとわかりましたでしょうか?

殆どの人はこの世間と社会を住み分けながら生きている・・・と思いがちだけど、実は、私たちはそれが半々なんかじゃなく9:1位の割合で、じつは「世間」に生きてたんです。(「社会」を「公共」に置き換えると少し実感できるかも)

さらにインターネットです。SNSです。

友だちや知りあいとのやりとりが多いSNSは、「世間」のようについ使ってしまうけど実は「社会」です。これが分かってるようで実は分かってない人が、「世間」のつもりで冷蔵庫に入った写真をアップしてしまうのです。

また別の話。

何年か前に秋葉原で無差別殺人事件がありました。犯人は、犯行前に2,000回もの書き込みをインターネットの掲示板にしていたそうです。しかし彼の書き込みは数こそ多かったけどどれも1,2行のものでした。その大量の言葉に返信する人はなく絶望した犯人は凶行に及びます。

鴻上さんは本の中で、彼が書いた言葉はすべて、親しい仲間になら通じるような「世間」の言語だったと言ってます。しかしネットの掲示板の向こうは「社会」です。彼は使うべき言語を間違えていたのです。

「ものすごい不安とか、お前らにはわからないだろうな」

ではなく

「ねえ、派遣社員の情況って知ってますか?派遣はクビになったら社員寮も追い出されるのです。同じような境遇の方はいますか?」

と書けば、事態は変わっていたのではないか、誰かが返信してくれていたのではないか、と。

これちょっとわかる気がしませんか?

世間にしか通じない語り方(自分の交友関係の中で話すような言葉)で社会に話しかけてしまう。だから無視される。雑踏の中で知らない人が「おい!お前!お前!!」と叫んでいても、誰も返事はしませんよね。

無視だけではないです。場所を間違えた言葉を使った人を面白がって吊るしあげる・・・社会の中には言葉を間違えた人をわざわざ見つけて罰を与えようとする人もいるのです。炎上事件などはこちらですね。

さっきの席取りおばちゃんもお化粧姉さんも、「とりあえず私には関係ないわ」と思っていても、その姿を写真に撮られて、いつアップされるかわからない「今」を生きているのです。

内輪話のはずが炎上してしまうのも、会社の内部告発も、根っこは同じ。この透明化の流れは止まらなくて、世間はどんどん社会にこじ開けられていきます。

「社会」に届く言語で話そう!

さて、「言語を手に入れる」についてあらためて。

これからの時代、この「世間」への言葉と、「社会」への言葉とを、自分の中でどれだけ理解しコントロールして使っていくか、そのことによって「生きやすさ」や「生きにくさ」が変わるようになるのではないでしょうか。

社会には間違えた言葉に異様に厳しい人たちがいますが、そんな人ばかりではありません。

震災の夜、見知らぬ人と話し合った空間を、日本伝統の濃密な「世間」が復活したと捉えるか、日本人が「社会」に住む人達と会話を始めたととらえるかで、コミュニケイションの理想形は変わってくると、僕は思っています。

世界は、震災当日の日本人の振る舞いを絶賛しました。略奪も暴動もなく、それどころか、何時間も整然とバス停に並んだ日本人。東京では、何時間も渋滞が続きましたが、クラクションを鳴らす車はほとんどいませんでした。

これはかつての日本の村のような強力な「世間」を人々が求めた結果なのか。それとも見知らぬ人との「社会」を成立させようと人々が思った結果なのかーーーおそらく、両方あったのだろうとは思います。

 

田舎では、昔ながらの「世間」に戻ろうとした人も多かったでしょう。都会では、「社会」に生きる見知らぬ人間同士だからこそ、お互いが手を差し伸べようと感じた人が多かったのだと思います。そして、それが、震災後のボランティアにつながったのでしょう。

「絆」を「世間」の人とのつながりととらえるか、「社会」の人とのむすびつきととらえるか。

これ、あなたはどっちだと思いますか?

私は震災の日、出先から帰れなくなり不安な夜を過ごしていましたが、一緒にいた見知らぬ人たちと食べ物を分けあったり声を掛け合ったりしながら、また、twitterで交通情報をつぶやいてくれる友だちのツイートを読みながら、恐かったけど不思議にあたたかかった一晩を過ごすことが出来ました。

私はこれを「困ったときは昔のような温かい人付き合いができるんだ」とは思いませんでした(そういう「昔」を知りませんし)

私は、あの時、あの場にあったものは、「社会」に生きる見知らぬ人間同士だからこそ、お互いが手を差し伸べよう という気持ちだったと思っています。

「社会」には間違えた言葉に厳しい人たちがいます。だけどそういう人たちばかりではなく、正しい言語で話しかければ必ず、まだ知らない「あたたかい人達」に言葉が届くのです。

そういう人に届く言語を手に入れよう。そういう人に読んでもらえる言語でブログを書こう。

では「そういう言語」ってどんな言語なの?

答えは簡単で、

「世間」の言語を使わないで書く、それだけなんです。世間の向こうに社会があることを意識して、そこに向けた言葉で書こう。それだけ。

空 月 星

夕焼けと三日月と星。tw見てたら綺麗と教えられ撮った空。まだ見ぬ人との嬉しいやりとり。

でも実際やってみるとよほど意識しないと実は難しい。ブログもSNSも、最初に反応をくれるのは身近な友だちです。そうするとどうしてもその人たちに向けた言語で書くようになっていきます。もちろんそれだけでも充分に楽しいです。

私はブログリニューアルから社会の言語で書くようになっていました。そのことで今までの「世間」との摩擦もおきました。慣れない言語なので書きにくいこともありました(今でも時々変な言語で書いてるのではないかと)

でもやっと、社会での言語で書き続けたことで、社会の届いてほしい人に少し届くブログになれたのではないかと思うのです。

では友だちに内緒で書けば、自然と世間の言葉を使わないようなるんじゃないかと思いますか?・・・でもそれはまた違う。そうすると今度はただの「ひとりごと」になってしまう可能性大なんです。それもやはり社会の人に届く言語ではありません。

これはノートにも言えて、スマートノートの第4フェーズの「人に見せるノート」というのも、ノートが「社会の言語」で書けるようになったということなのではないでしょうか。

どこか何かが突破するきっかけって、この「社会に通じる言語」を持つことって大きいと思うのです。ネットだけでなくリアルな人間関係の作法においても。まずそのことに気づくことから。

この「気づき」・・・私はこういうのを自分の努力というよりは外的要因と最初に書いたんだけど、やはり内側にためていたものがあっての「気づき」、という面もあると思います。これは私にとっては「ノート」が大きいです。さらに言えば「そうだ、だから社会の言語で書こう」とわかってブログを書き始めたというわけでもありません。「感じて」はいたけれど。最近の読書でやっとそれと気が付きました。

何かを変えたい、突破したいと思っている時、もしあなたがブログを持っているのなら「社会への言語」というのを意識してで書いてみてはいかがですか?

ではでは今日はここまで。あとふたつ、「キーワード」と「仮面」についても 、また書いていきたいと思います。

このシリーズの記事

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