「常識ね…。私、予言しておくわ!あなたたちは一生常識の垢にまみれて何の輝きもない人生を送るわ!そして死ぬのよ!常識バンザイ!って叫びながらね!」
・・・おいおいいきなりどうした?とお思いかもしれませんがw
これは往年の、臭いセリフで有名な大映ドラマ「アリエスの乙女たち」のヒロイン・水穂薫(南野陽子)のセリフです。これは昔、某所の「大映ドラマでこんなセリフがあった」という場で見つけたものなんですが、私このセリフ大好きなんですよ。すごいインパクトじゃないですか?
先日、久しぶりに古い友人の話を聞き、彼女とのあいだでの思い出したエピソードが有りました。
もう10年以上前の話なんですが、当時自分はアパレル会社で働いていて店長になったばかり。正社員は自分だけであとはほとんど主婦パートさん。人手は足りず、でも人件費は抑えられていて雇えず、結局自分が限界までフルで働くしかどうしようもない、でも店長なんだから仕方がない…そんなマインドで仕事をしていました。
そんな頃彼女からこんな電話がかかってきたのです。
当時彼女はとある会社の技術職としてアルバイトで働いていたんだけど、辞めて一年間ワーキングホリデーで海外に行ってました。その後日本に帰国してまた仕事を探し始めた時、前職の会社がちょうど募集をかけていたのを見て、
「また働かせてもらえますか?」と尋ねたら、彼女は経験者なので会社としては大助かり、ぜひとも!という話だったんだそうです。
ところが、よく話したら時給は新人と同じ金額からスタートだというのです。
「自分は一度辞めたとはいえ経験者だし、上司もそれをわかってるくせに時給はイチからだなんて納得がいかない!」
という怒りの電話でした。
私、その時、彼女の怒りに同意できなかったんですよね。だって辞めたのは自己都合だし、帰ってきて求人してたのもたまたまだし、バイトなんだし、時給がイチからになってもそれは、一旦辞めたペナルティというか、自己責任というか・・・仕方がないんじゃないのかな?って。
「うーん、でもお店側としては、昔辞めた人が求人に応募してきたら、悪いけど時給はイチからでいい?って聞くかも。」って。
そう返事したのです。当時の私の会社の中での「常識」では、その時私が感じたことが「常識」でした。「私だけじゃない、他の店長だってきっとみんなそう思うよ!」と、自信を持って言えました。
友よ、あの時は同意できなくてごめんね。「友」としての意見じゃなくて「お店の人」の意見を言っていました。「考えて」なかったんだと思います。余裕がなかった。
今はそうは思わないです。一旦辞めたペナルティってなによそれいやがらせ?って思います。彼女は新人以上の技術があるわけで、それをわかってて、イチからの時給で雇おうなんて会社に都合良すぎませんか?って。
それは、私の立場が正社員じゃなくなり、管理職でもなくなり、その後パートになったり、失業したり、今フリーで働くようになって私の「常識」が変わったからです。辞めてなかったらたぶん前の「常識」のままだったと思います。
自分の働き方や立場が変わるだけで、「常識」と思うことも変わるんですね。どっちが正しいとかじゃないんです。違う「常識」どうしで「常識大合戦」をするのってほんとうに意味が無いんです。
「常識」が違うもの同士の「常識」がかち合ったときは、どちらかに従わせるのではなく、あの人は私と違うんだな、と思うに留めるくらいでいいんだと思います。
しかし「常識大合戦」って多いですよねぇ。目玉焼きにはソースか醤油かくらいの他愛ないものならまだいいんですけど、自分の意見をいう時に
「常識ではさ~~」「常識だよね?」と入れて話す「常識さん」ってけっこういます。
「常識だよね?」という枕詞での誰かへの攻撃的ツイートを見たりすると、私はそれが自分に向けられたものじゃなくても「うへぇ・・・」という気分になります。
私の常識もそうだけど、あなたの常識もそう大したもんじゃないってば。「常識」を盾にした批判や反対意見って、たぶん100%相手には届きません。その場で自分を支持してくれる人がたとえ過半数を超えたって。相手は違う常識の人なんですから。多数決勝負じゃないんですよ。
むしろ違う常識とぶつかった時には、相手を間違ってると責めるよりも
「ほう、そんな意見や価値観もあるんだな」
と、自分が「考える」きっかけになるくらいに受け止めるほうが視野も広がるしいいと思うんだけど・・・まあ、私もさっきの昔話を思うと偉そうなこと言えませんが。
「常識さん」から抜け出すために
私がスマートノートを書く目的は「自由自在なおもしろき人」になるためです。そしていま、毎日ノートを書くにあたって気をつけてることは、できるだけその
「常識では」「常識だよね」を枕詞にして自分の意見を書かないようにしよう
です。「常識では」と言って意見を書くのって、「多数」をまず味方にしておこうっていうあざとさがありますよね。ニュースキャスターやコメンテイターが「我々国民の意見としては~」といって発言するのも嫌いなんだけどそれに近い感じ。
ブログやTwitterなどで自分の意見を発信する人は増えてきました。でも誰もがアクセスの多いブログを書けるわけではなく、フォロワーがどんどん増えるツイートができるわけではないです。
私自身もまだまだ「~と思う」と書くことが多く、逃げ腰だなぁ、もっともっと「考える」を鍛えねばと思います(←あ、使っちゃったw)
でもこの
「常識では」という枕詞を外した意見を言えるようになる
というのはけっこう「おもしろき人」への「はじめの一歩」かもしれないです。わたしがおもしろいと思う書き手さんってそういえば「常識では」的意見を絶対書いてないですし。
毎日ノートに向かう時、私は「5行日記」を今でもずっと続けていて、5行日記の中からテーマを選んでそのことについて一歩深く考えたことをノートに書くのですが、その時も「自分の意見」のようでいて実は「常識的な意見」をなぞってるだけじゃないか、ということに気をつけるようにしています。
テレビのキャスターが言ってた意見じゃないか?ツイッターで影響力のある人が言ってた意見じゃないか?
単に「常識」の立場の方に自分を立たせて正当性を高めようとするだけの意見ではないか?
ってね。(けっこう私影響されやすいんですよ)
ノートは「常識」にとらわれない素の自分を洗い出してくれる場でもあります。「常識バンザイ!」側にいたらいつまでたっても「おもしろき人」にはなれない!
まずそんな「常識側」に立とうとする自分と、ノートの中で向い合ってみるのも「おもしろき人」へ近づく一歩ですよね。