【読書】幻の光~しあわせになる力・セレンディピティについて | Rucca*Lusikka

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2ヶ月くらい前に、私のTwitterのタイムラインでとある海外の翻訳記事の事がツイートされていて、興味を持って読みに行ったんだけどあまりのカタカナの多さに意味がほとんどわからなかったことがありました。

時間もあったのでここで「わかんないけどわかったつもり」になってはいかんと思い、一個一個調べてみました。

ソリューション、ハッカーソン、セレンディピティ、エコーチュンバー、ユキビタス・・・。

そんななかで「セレンディピティ」という言葉に強く引っかかりました。

セレンディピティ【serendipity】

思いがけないものを偶然に発見すること。また、その能力。

何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉。

科学の世界ではニュートンが有名で、リンゴが木から落下するのをみて「万有引力の法則」を発見した。この発見する能力をセレンディピティと呼ぶ。

はてなキーワード「セレンディピティとは」より引用

「何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉」

んーと、探してるものじゃないものが見つかるって、これって人間の「能力」なのかな?「幸運」とか「偶然」ではないの?

と疑問に思いツイートした所、

能力才能というとちょっと腑に落ちない気がするんだなぁ。意図してなくても、全ては必然だった、という感じ?セレンディピティ。

というリプライを海外在住のリアル友から頂き、

あーー!そっか!わかった!!

となったのでした。

さてさて、前置きが長くなってしまいましたが、今日のブログは先日再読で読んだ小説、「幻の光」の感想です。

 

はじめて読んだのはもう20年近く前で、そのあとも何度も読んでいますが久しぶりの再読です。短い小説です。早い人なら30分もあれば読めてしまうでしょう。

主人公のゆみ子は子供の頃から好きだった幼馴染の夫と結婚した。2人とも尼崎の貧しい長屋育ちで高校にも行けなかったけれど、夫は工場でまじめに働き、子供も生まれ、暮らしは裕福ではないけど幸せだった。

その夫がある日なんの前ぶれもなく、自分と生まれたばかりの子供を残して鉄道自殺をしてしまう。

全くなにがなんだかわからない…でも子供のためにも生きていかなくてはならない。ゆみ子は実家の母に同居してもらいホテルの清掃員として働きに出る。そして4年経った頃、世話をしてくれる人がいて再婚することになる。でもゆみ子は夫を失ったことからまだ立ち直ってはいない。

夫はなぜ死んだのだろう?・・・考えても考えても出ない答えに疲れ、ただ毎日が過ぎていた時に縁談が来て、断る理由がないことだけが理由での再婚でした。

奥能登の、妻を亡くし娘と老父を抱えた男の元へ嫁ぐ日、駅まで送ってくれた母と別れいよいよ電車に乗る直前、ゆみ子は「やっぱりよそう、見知らぬ地に行くなんて、再婚するなんて」と思い、改札口にまだいるであろう母のもとに引き返そうとする。

そこへ漢さんという知人が現れる。普段ほとんど会話をしたことがない人なのに

「どこへ行くねん、こんな朝から?」

と話しかけてくる。そこに電車が来て漢さんが子供を抱き上げて乗せてしまい、しかたなくゆみ子は漢さんと一緒に電車に乗ってしまう。

まあいい、梅田に着いたらまた戻ればいいと思っていたのに、ゆみ子の事情を聞いた漢さんは大阪駅まで見送るという。

さらに漢さんは大阪駅のホームまで入って見送ってくれ、

「これからが女ざかりや。・・・・がんばりや」

と、ゆみ子を送り出してしまうのです。

後悔、心細さ、不安でいっぱいのゆみ子は、けっきょくそのまま奥能登の曽々木という漁村へ運ばれていったのです。

 

ゆみ子は奥能登の海辺の地で新しい家族とともに生きていきます。時々海を見ながら亡き夫の背中に語りかけている秘密を持ちながらも、新しい夫と少しずつ心の通う夫婦になっていきます。

そしてある夜ふと、「なんであの人は死んだんやろ?」と夫に問うのです。夫はこう応えます。

「人間は、精が抜けると、死にとうなるんじゃけ」

暗い北陸の海に時折キラキラ浮かぶ「幻の光」、そのさざ波はこの世のものではない優しい平穏な一角のようで、暗く冷たい深海の入り口。ああ、あんたはきっと、あの夜レールの向こうにあれと同じような光を見たんや・・・。

 

物語は静かに終わります。

 

ゆみ子は幼馴染と結婚し幸せになった。でも突然夫は自殺してしまう。なんの前ぶれもなく、全く理由がわからない。ゆみ子の人生に大きな「問い」が刻み込まれてしまう。

そんな重い問いを抱えながらゆみ子は子供を育てるために働き、縁談を受けて遠い地に嫁ぎ、その家の後妻になって家を切り盛りし、ご近所ともうまく付き合って、この地に根を下ろしていく。

魂の一部を亡き夫への問いに縛られたまま、流されるままのように生きていて、実はしっかりとしあわせになる道を選んでいる。

死んだ夫へのひとりごとに感づき訝しんだ夫に対して、とっさに「前の奥さんと、うちと、どっちが好きや?」と媚を込めていえる女くさい面をも持っている。

セレンディピティ

ゆみ子は間違いなくこの奥能登での新しい家族と共にしあわせに生きていく。多分、再び大きな不幸が襲っても彼女はまたそこからしあわせになっていく予感さえ感じる。

ゆみ子のしあわせのなり方はまさにそれじゃないかな?駅で漢さんに偶然会ったのも。これは本当に「偶然」なのだろうか?

宮本作品に出てくる女性の共通点はまさにそこで、どのヒロインもこのセレンディピティに優れている。決して強くはなく、特別賢くもなく、美しさは…作品によって美人のヒロインとそうでないヒロインといるけど。

大きな不幸にもあうし、おろかな間違いもする。でもまわりの環境に流されているようで・・・自然としなやかにしあわせになる。

このブログではずっと前から「オンナヂカラ」というものについて、私がいろいろブツブツ言ってるエントリーがいくつかあったりします。

オンナヂカラについてのエントリー一覧

オンナヂカラとは、女が幸せになるためにほんとうに必要な力のことです、女子力とはちょっと違います(笑)もともと弱い立場ゆえに備わった、変わり身の早さとか、相手にあわせて自分を変えていく力。それでいて自分の望む方向へとまわりを動かせる力。運命に流されているようで決してそうではなく、与えられた環境に自分をすぐに適応させていける力。


「弱いはじつは強い」

強くないからこそ身に備わる、別の強さっていうのかな。強い人間(ある意味男)に上手に守られる強さ、みたいな。

ゆみ子は別に遠い奥能登まで再婚しにいかなくてもよかったし、駅で漢さんに会った時も「忘れ物をした」とか言って引き返すこともできた。結婚後いきなり民宿を任されて「聞いてないよ!」と新しい夫やその連れ子とギクシャクしてもよかったし、半身が不自由な義理父の将来の介護なんて嫌だと思ってもよかった。

でもゆみ子はすべてを自然に受け入れ流されていくようでしあわせになっていく。偶然も、反射的なとっさの媚も、見えない女の武器として身に備えて。多分それは計算じゃないもの、ゆみ子のセレンディピティだと思う。

セレンディピティについてググっていたら、脳科学者の茂木健一郎さんのブログに行き当たりました。その中で茂木さんは、

偶然の出会いは誰にでもあるけれども、その時にその出会いに「気づいて」、いろいろ考え、吸収して自分のものにすることができるか、

つまりは「偶然」を「必然」にすることができるか、というもの

茂木健一郎 クオリア日記より引用

と書かれていました。

「偶然」を「必然」に変えることが出来る力。

これはべつに「オンナヂカラ」に限ったことではないけれど、宮本作品のヒロインにはみなこの力が備わっていて、それはこういうことなんだよ、というのがひとつひとつの小説ごとにいろんな形で織り込まれているなぁと思います。

読んだあとちょぴっとずつ、その秘密に近づけるような・・・また折々に再読していきたい小説です。

映画化もされていますね。私はまだ観てないのですが今度観てみようと思います。

出演: 江角マキコ, 浅野忠信, 内藤剛志,
監督: 是枝裕和

 

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