とても共感できる本を読みましたのでご紹介です。
これからの時代の「新しい働き方」について、このブログでもいろいろ自分の考えを書いてきました。
これからどんどん「仕事」は少なくなっていく。正社員になれない人が増えていく。あぶれた人はずっと非正規で低い給料で生きていかなくてはならなくなる。では、「あぶれた人」が、あぶれたことゆえに組織に縛られず、自由に自分のペースで自分のやりたい仕事をしながら楽しく生きていく道はできないものだろうか?
著者の伊藤洋志(@marugame)さんは、月3万円ビジネスの著者である、藤村靖之さんの起業塾の生徒さんだった方で、「モンゴル武者修行ツアー」や「熊野暮らし方デザインスクール」など、なんだかおもしろそうな企画をたくさん作っていらっしゃいます。
- 伊藤洋志さんのブログはこちら→ナリワイ
- 藤村靖之先生の講演会行った時の私のレポート記事はこちら→「月3万円ビジネス」競争社会から共生の社会へ
まずナリワイとは何か?
ナリワイは、ライフとワークのバランスを考えるのではなく、そもそも生活から乖離してしまった仕事を個々人の手の届く範囲のほどほどの距離に近づけるものでもあります。
そのためには、一つの仕事だけで競争を勝ち抜くのではなく、様々な仕事をその適正サイズを見極め、それぞれを組み合わせて生計を建てていく、という百姓的な作戦や、そもそも生活の自給度を高め、不必要な支出をカットするという作戦の合わせ技が必要である、と考えています。
伊藤洋志さんのサイト「ナリワイとは」から引用
行きすぎてしまった仕事の専業化、分けられすぎてしまった家族
いまの世の中の働き方は「専業」になりすぎている。専業というのは大きな組織の中でうまく回っているうちは効率がいいかもしれないけれど、ひとたびそのサイクルから外れたら「会社を離れたら一人では何もできない人」になるリスクが高いです。
伊藤さんは高度成長期からの日本は「株式会社日本」だったと書いてます。高度成長期に、日本は「株式会社日本」になり、人は都市に住み、仕事は分業化・専業化がすすみ、家族は核家族になっていった。
確かに、家も仕事もどんどん細かく分けて、人をどんどん一人にして、小さな間取りのアパートやマンションをたくさん作って、その一つの家でさらにクーラーやテレビを数台も買わせて日本は成長していったんだと思います。
だけどいま、そんな「少単位で生きたほうが快適」な暮らしを推し進め保証していた「雇ってくれる会社」がどんどん少なくなっていって、あぶれた人たちからどんどん寄り添い始めている・・・私はそう感じています。
いま「株式会社日本」はグローバルの波に耐え切れなくて崩れかかっている。
専業の最大のリスクは自分の仕事が会社の浮沈と一蓮托生になってしまうこと。あなたの今の仕事が「その会社」でしかできないものだったらリストラされた時のリスクは大きい。なので一人でもダブルインカムができるようになることが、これから先の大きなセーフティネットになると。
サブタイトルに「人生を盗まれない働き方」とありますが、では「盗まれてる働き方」とはなんだろう?
それは、専業化・分断化の大きなデメリットである自分の仕事の【実感】を得にくいことです。
自分の仕事が世の中の役に立ってる、誰かの喜びになってる、という【実感】の欠落は、組織が大きくなって分業化するほど起きやすくなる。さらに、責任を細切れにし仕事を振り分けた結果、誰も全体に責任を持ちにくくなった。
- 大手電機メーカーの社員なのに他社の携帯電話を使う。
- 自分の子供には自社の風邪薬を飲ませない。
- 自分の会社のサービスは身内にはすすめない。
これ、よく聞く話ではありませんか?
自分の会社の自分の仕事が「会議を通すため」に向けられていて「顧客のため」ではないということを、関わってる人間がすでにわかっている。だからこんな現象が生まれてくるのではないかと。
ではナリワイを実践するには?
「ナリワイ」は、フリーランスと似ていますが、実は微妙に違うとのこと。
フリーランスはクライアントの依頼を受けて作業を納品して報酬をもらうパターンが多い。ようするに、仕事をしたらお金が一時的にもらえて、それで終わり、という仕組みが多い。
毎回オリジナリティが求められるハードルの高い仕事だが、受け取れる報酬は一回きり。これを続けていくには、バトルタイプで体力がめちゃめちゃあるか、さもなくば低給与、あるいは無休無給で働いてくれるスタッフを雇うことができるカリスマ性が求められる(建築・デザイン系に多い)。
大体30代後半に体力気力の限界をどうするのか、という問題が起きてくる。
ナリワイゲリラ作戦は、そんな世界に不向きな非バトルタイプ人間に適した作戦なのである。私は自分の文章能力を、クライアントではなく、自分のナリワイのために使うことにした。そこからの仕事は、全く別の次元のものになった。
確かに、「フリーランス」と一言でいってもいろいろあって、企業からの「外注」「下請け」的な仕事のほうが多いと思います。それだと発注してくれる会社に何かあったらやはりこちらも共倒れ。「専業」の危険はフリーランスにもありますね。
ナリワイはどっちかというと「自営業複数」にちかいのかな?
自分でアイディアを出して、自分で仲間や材料を集めて、自分で作って、自分で集客して、サービスを受けた人からの声を直接聴ける。それを大きくやらずに小さく複数行う。これは100%実感を感じる【盗まれない働き方】といえるでしょう。
ではそんな働き方って誰にも可能なのか?
本を読んだ私の感想としての答えは【やれば可能】です。
しかし私はすでにアラフォー世代なので、若い人よりも頭は固いし、今までの社会の価値観にどっぷりはまって働いてきています。
月3万円ビジネスもそうですが、この本を読んでいると、都市よりもローカルにチャンスが沢山ありそうな気がしてきますが、支出を抑えた自給自足な生活と言われても、まず田舎暮らしが出来る自信がないです。
ゴーヤをベランダで育てるくらいしか農業(といはいえない)らしいことはやったことないし、なにより虫が嫌いだし、雪かきできる体力にも自信ないし、車の運転もできない(免許はあるけど)、壁塗りも床貼りも棚の修理もできない、火もおこせない、かまどでご飯を炊くこともできない、川で魚を釣ることもできないし、ましてやニワトリをしばくこともできない。
なんでできないかというと、「やったことがない」し「誰かがそれをやってくれた」のを買うだけで済んだ都市に住んで育ったからです。
都市でしか生きていけない人間はたくさんいると思う。これも、極度な仕事の分業化による人間の能力の低下、自信の喪失、と、本にも書かれていましたが全くその通りだと思います。
別に田舎で自給自足暮らしをすることでしかナリワイはできない、と、書いてあるわけではありません。都市で暮らすにはどうしても高いコストがかかる、そのコストを低く抑えるための選択肢としてのローカル暮らしです。
「都市でしか生きられない」、その呪縛を解くと、生き方や働き方、住む場所ももっと選択肢が増えて自由になれる。
はじめは「ひのきのぼうとぬののふく」しか持ってなくても、RPGゲームのように、「できること」をすこしずつ増やして仲間を見つけていく。
「ナリワイ」の【やれば可能】は、そこがポイントかなと思いました。
※田舎でなくても…今「日本一のニート」と言われるPha(@pha)さんの
ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法
という本を読んでいるのですが、低コスト生活、なかなか参考になります。都市でならシェアハウスという選択肢も増えてきたと思います。
では「私」がナリワイをさがすとしたら?
私は長年働いていたアパレル会社を辞めてから、紆余曲折の末、いまは在宅でデザインの仕事をしていています。正社員の頃の収入には及ばないけど、パートで時給で働く程の収入は今のところはあります。
でもこれは先のフリーランスの働き方であって、クライアントはあっても仕事は納品したら終わりだったり、継続した仕事があっても向こうに何かがあればやはりそこで終わり、という可能性もありますし、来年も同じく稼げるなんて保証はどこにも無いです。
なので
私は自分の文章能力を、クライアントではなく、自分のナリワイのために使うことにした。そこからの仕事は、全く別の次元のものになった。
この部分が非常に気になったところです。
クライアントが自分で、自分のナリワイのために仕事が出来る。つまりデザイナー専業でなくそれ以外のナリワイを幾つか持って、そのためのサイトやチラシをまた自分で作る。
私が現実的にこれからやれそうなのは、やはりネットショップ系だろうか?これは元々やってみたかったんだけど。
サイトが作れるというのは強みのひとつだ。今はそれもそんなに難しいものではない。自分でやれることが増えれば自由度はひとつ上がる、わたしも最初はパソコンなんていまさら勉強しても無理!(webをやりだしたのアラフォーからだよ)って思ってたけど、勉強していくうちに作れるようになっていった。
なのでもしかしたら、自家菜園も壁塗りも、今後やろうとさえすればできるようになるのかもしれない・・・?
今は自給自足からはじまって、極度な分業に行き着き、それが揺り戻しを迎えている時代なのだと思う。話はさらに進んで、分業化して人間の経験値の多様性が落ちると、今度は労働が娯楽にすらなる可能性を秘めている。
昔は大工仕事くらいやったことのある人が多かったが、今やそれも少ないので、逆に新鮮な作業だったりする。これもナリワイのヒントになる。
(略)
なんでもサービス代行が全盛のこの時代に、錯誤的だなあ、と思われる面もあるかもしれないが、やっぱりどう考えても、分業のしすぎはどこかで人間の能力の低下を招いてきたのだと思う。
また、生活の中での楽しみが減ってきた要因でもある。同時に、自分の体一つでもある程度のことはできる、という自信を失ってしまった。これが、世の不安を増長させている要因であることは間違いないだろう。
これから少しずつその自信を取り戻していかなければ、やっぱり相変わらず仕事と生活はキツイものになるだろう。
まずは自分ができることを少しずつ増やし、できないことは仲間と協力し、【実感】を感じられる大きさで小さなサービスを作っていく。とりあえずは、学生なら夏休みでも、会社員なら週末でも、主婦ならパートに出るよりも。
「プチクリ」をナリワイにしていけたら楽しいですよね!
そんな「新しい働き方」についての、ヒントやアイディア、考え方にあふれた一冊でした。
あと、「新しい働き方」系の本やセミナーって結構今はたくさんありますが、その情報の選び方や、セミナーの見分け方についてもチクっとあってこれは参考になると思います。
ナリワイとはコンセプト先行のキャラ化させた「わかりやすい」ものとは間逆であると。個別の事例の集合体がナリワイというものを浮かび上がらせる。見たりやったりしながらナリワイ的発想はじわじわ身についてくるものだと。
例えば「即日満席!」を謳うようなセミナーは、商売的には成功かもしれないけど、ナリワイ的感覚ではそれは違う。異なる世界からの新しい出会いが生まれていない可能性、または何回も受講してる人すらいるセミナーの可能性がある。リピーターが多いセミナーとは、言い換えれば落第者を出しまくってるということでもあると。
いきなり満席!とかいきなり大人気!を目指さない、そこに成功の主観を置かない。
ナリワイをはじめてみても、今までの「成功事例」の価値観がこびりついていると、時々不安になったり「成功」の内容を間違えたりするかもしれない。そこはまずゆっくりゆっくり、ナリワイ感覚を身に着けていくしかないのだと思う。
本の中で「ナリワイゲリラ」という言葉もありました。例えは悪いけどアルカイダのように、巨額の最新兵器を持たずに巨大軍事大国に対抗するために編み出された組織(といえないかもしれないけど)のような。
企業が安価な非正規社員の雇用に移行してくるなら、私たちはどんどん複業をし、様々な経験を積みスキルを上げ、正社員に準ずるような待遇に甘んじない実力をつけて企業に入り込み、自分のペースを守りながら評価される働き方をして見せますわよ、みたいな。
それもまたおもしろい、新しい働き方への希望的なほうの観測のひとつですよね。