先日、母から電話があり、
「面白いものが見つかったから取りに来い」という。
「なによ?」と聞いたら、なんと、私の小学校の卒業記念のサイン帳だというのだ。ひー!どこにあったの??
全く実家というところはなにが埋まってるかわからないものだ。。。実家を出るときに地雷になりそうなものはすべて廃棄し、大切なものは持ってきてたつもりだったんだけど、取りこぼしがあったのね。
ちなみに古い日記は全て処分したw あまりにも厨二病全開すぎて(書いていたのは高校から20代前半くらいまでだが)こんなモノがあったらおちおち旅先でうっかり死ぬこともできないので(;´∀`)
母曰く、
「お友達みんなアンタのこと”おもろいやつ”って書いてるんだけど、アンタってそんなにおもしろい子だったの?」
あーーー!!もう、見るなっつーのっ!!!
全くどうでしょう、母親のこの当時の娘への関心の薄さは。ブツブツ。。。
丁度、友達との約束もあったりなんかして実家に行ったので、そのサイン帳を頂いてきた。
いや??懐かしい。
私にとって小学校時代というのはちょっと特別で、そのことについては前にも書いたことがありました。
たしかにみなさん私のことを「おもろいヤツ」と書いてる。。。ちょっと驚きだ。
いやしかし、バラエティアイドルまたはお笑い芸人的な、いわゆるクラスの人気者では断じてなかった
今でいう「ちょっとマニアック」とか「オタク風味」という意味での「おもろい」のほうがニュアンスが近いだろうか??
それは認める(爆)
が、
クラスの中の仲のいい子もそうでない子も、みながみな「おもろいヤツ」と書いててくれてることに、自分は本当に小学生時代幸せな子だったなーとしみじみ思ってしまった。
ツイッターで、どなたかが紹介してくれた言葉で(糸井重里さんだったかなぁ、ちょっと失念)、
本当の自分とは小学生の頃の自分だ
というのがあって、ああそうかもと思ったことがありました。
本当の自分に帰りたい、とか、これは本当の自分じゃない、と思うときの「本当の自分」は、たしかに「小学生の時の自分」だから。。。気がつかなかったけど。
中学や高校、専門学校、社会人、あちこちの場面で、たぶん私を「おもろいやつ」と評してくれるのは、本当に一握りの仲の良い友達だけだと思うので。
転校したあとからは「おもろいヤツ」な部分を、出さないようにしてるうちに(転校生で目立つと危険な中学環境だったので)、ものすごい人見知りになったともいえる。
でもなー。子供というのを差し引いても「おもろいヤツ」ではあったけど、「ちょっとイタイ子」な部分もけっこうな割合で含んでたとも思うし、ある意味処世術を身につけていったともいえる。
今は一周回って、けっこう「本当の自分」でいられる時間が多いかなと思う。
そんなに昔ほど外の自分と「乖離してる感」が少ないというか。この「感じ」が違和感なく順調に育った人はほんとうに羨ましい。
そして乖離してる感が少ないというのはなんとも幸せなことなんだなぁと、改めて思うのであります。
学校が辛い子供たち…辛いよね。本当の自分を出せない、出せば否定される(いじめられる)、本当の自分のままでいられる友達がいない。
周りの顔色を伺い、周りに合わせることに気を使い、好きでもないものを好きなふりをして、やりたくないことをやって、嫌われないようにしてるうちに、自分の顔がどんどんなくなっていってしまう。自分がどんな子だったかわからなくなっていってしまう。
そうやっていびつに育っても、それでもある程度大人になれば、けっこう自分の本質ってそんなに変わってないことに気がつくわけで、生きてりゃそのうち、本当の自分のままでいられる誰かに出会うチャンスもあるわけで。。。
なんてなー、10代の子に言ってもピンと来ないんだろうなぁ。
私なんて、30過ぎてからやっと抜け出せたんだぜー!…というのは励ましになるのだろうか??
わかんないけど。
本当の自分でいられる場所は、無いことに慣れるよりも、頑張って探しに行ったほうがいい。探しに行けないなら、今いる場所で強く根を張ろう。
自分一人しかいない場所の中に、ではなくてね。。。