先日、友だちと東京の人形町という町を散策しました。下町好きで向田邦子ファンの友だちが、邦子さんにゆかりのあるステキな趣きのお店をいろいろ案内してくれてとても楽しかったです。
そこでたまたま寄った、「うぶけや」という刃物店(なんと1783年創業!)で、小さな爪切りをひとつ買いました。特に爪切りが欲しかったというわけではなく「せっかく来たから」という自分へのお土産感覚でした。
ところが!
この爪切りが!
私にとって!
神だった!
というのは、私は爪がとても薄くて割れやすく、乾燥する冬場は特に悩みの種でした。いったん亀裂が入ると伸びるまでテープで補強しなくてはならず、それでも引っ掛けて剥がれて痛い思いを・・・。
特に爪を切ったあとにヒビが入りやすいので、一時は爪切りをやめてヤスリにしましたが、ガラスに爪を立ててキキキ・・・みたいな生理的な気持ち悪さに耐えられず結局いつもの爪切りを使っていました。
うぶけやで爪切りを買う時に
「爪が弱いんですけどオススメの爪切りってありますか?」
と尋ねたら、刃がラウンドになってない直線のものを薦められました。これで切るとヒビが入りにくいんだそうです。確かに!切り終わって一箇所もヒビが入りませんでした。感動しました。
今思うと不思議なのは・・・
私、なんで今まで「爪切りを変えてみる」という発想に至らなかったんだろう?
ということです。
約15年、爪が割れやすいことに悩んでいたのに爪切りを変えるという選択肢を全く考えていなかったのです!ヤスリにしたり、オイルを塗ったり、ジェルネイルをしてみたり、アーモンドを食べたり、いろいろ試してはいたのに。
理由を幾つか考えると・・。
- そもそも今まで使っていた爪切りは実家にコロコロあったやつで、結婚する時持ってきたもの。自分で自分の爪切りを買ったことがなかった。爪切りを「買う」という発想がなかった。
- 「ちょっと良さそうな爪切り」は割と高価なので、そんなのを使うのは金持ちの自己満足だと思ってた。(道具にこだわるオレカッコエエ、みたいな)
- 一般的な爪切りだったら、どれを使ったところで同じだと思ってた。
そんなところでしょうか。
ずっと悩んでいたのに、不便な思いをしていたのに、こんな簡単なことで解決できたのに、なぜ気付けない??
なんかね、今回のことで、このことにもっともっとこだわって考えてみたくなりました。
昔、チタン製のフライパンというのを買ったことがありました。軽くて熱伝導が早くて使いやすいということで、こういうものは「いいもの」を買わないと!と思ったのです。1万円くらいしました。
ところが、使って2,3年ほどで焦げ付くようになって(手入れが悪かったのかもしれませんが)、チャーハンとか炒めてるとストレスがたまるようになってきました。それでも「高かったしいいものなんだから」となかなか買い換えることが出来なかった。
結局「とりあえず」と安いフライパンを買ったらそれが使いやすく、そっちばかり使うようになり、今もフライパンは1,000円程度のものを使っています。
買い換えたあとのなんともいえない気持ちよさ・・・ああ私の中でこのフライパンに対する「蓄積ヘイト」ってどんだけ溜まっていたんだろう??
この時は「高いフライパンだった」ということが、その「蓄積ヘイト」から目をそらさせていました。今回の爪切りの場合は逆に「良いものに変えた所でどうせ変わらないだろう」という思い込みかな?
こういうのを「変えてみるスイッチ」って、どうやったらもっと入りやすくなるんだろう?どうしたらもっと「気づく」ことができるんだろう?
私はこれをひとまず「快適センサー」と呼んでいます。この感度の良し悪しって、実はその人の幸不幸にかなり影響するんじゃないかなって。
これは「勘がいい」とか「鼻が利く」とか、そういう第六感的な才能っていうだけではなくて、その人の生き方とか、気持ちの持って行き方で鍛えていける部分が大きいと思うんですよね。
快適センサーを鍛える2つの方法を考えてみた
まずひとつは、
五感からの声をよく聴けること
そんなわけで今回やっと出会えた爪切りだけど、もっと早く出会ってても良かった(笑)
痛いのに、不便なのに、それを克服しようというよりそれに慣れようとしていた。
やはり「あきらめていた」んですよね。だからずいぶん思考停止してた。爪が割れることに「体質だし仕方がない」と。なので15年もかかっちゃいました。
もちろん「爪が弱い」ことに対する根本的な解決にはなってないのですが、道具を変えるだけで悩みが半分解決したのです。
「痛い」「不便」「苦しい」「悲しい」「辛い」
こういう「痛み」の感覚を、オトナはつい我慢してしまう。痛みを認知すると苦しいから「痛くないよ」と言い聞かせてしまう。
痛みの解決を考える労力(徒労に終わる可能性もある)よりも、痛みを受け入れてそれに慣れることで「なかったこと」にしようとしてしまう。
これってけっこうありませんか?五感からの「SOS」を聞かなかったコトにしてしまう。まずその声を聞いて覚えておくこと。これ大事です。
もちろん自分では解決できない「痛み」もあるし、それは受け入れて慣らすしかないのだろうけれど、そうでない「痛み」まで慣らそうとしてしまうことって。これの正体って「考えること」の無意識の放棄なんですよね。
何ごともあまり考えない、考えてないことにさえ気がつかない人は、一見オメデタイ人のように思えるのだが、実は深く傷ついている。
「考えない」というのは、自然天然の状態ではなく、実は、不自由なことではないだろうか。
山田ズーニー「伝わる・揺さぶる!文章を書く」より引用
↑これは、山田ズーニーさんの著書の中の言葉です。中に「考えないことで人は深く傷ついてる、そしてその傷に気がついてないことが多い」というメッセージがありました。
そこで、快適センサーを鍛えるためのもうひとつは
不快なモノ・コト・状態になったら、なぜかを考える癖を持つこと
だと思うのです。不快な状況に落ちた時そのまま我慢だけし続けて行くと・・・快適センサーはどんどん鈍っていくのです。
たとえば・・・すごく身勝手でわがままな彼氏がいてすごく辛い思いをさせられているのに「でも好きだから」と言い聞かせて我慢してたり、「ひとりじゃ寂しいから」が理由で別れられなかったりとか。
どう考えても不便で環境も良くない場所なのに、「でもでも」と引っ越すことが出来ずにいたりとか。
「仕事がつまらない」とずっと愚痴を言いながらも辞める決意までは出来なかったりとか。
その我慢は本当に「美徳」の我慢なのか、「思考停止常態」ではないのか?
快適センサーが鈍ると、なにが自分にとって本当に快適(しあわせ)なのかがどんどんわからなくなってしまうんですよね。わからなくなるとさらにどんどん主体性がなくなって、世間の常識や人の評価に合わせてばかりになって、知らない間に深く傷ついている。
自分の五感からの声を自分で聴けなくなっていく。
さっきのフライパンの話に例えると「不便」という自分の心の声よりも、「高かったものはいいもの」という先入観の方を優先していた、みたいな。
「考える」ってけっこうしんどいのです。
今の時代って、考えるための時間が極端に少ない。みんな忙しいし、テレビもネットもあるし、深くモノを考える孤独な時間というのがほとんどない。しかも不快なことなんて、それを考えるよりも慣れて忘れたほうがずっと気持ちが楽だ。
でも「考える」ことこそが、自分の快適センサーを磨き、五感からの声を聴き、自分を傷つけることから自分を守るための大切な手段なんです。
そして考え続けることによって、セレンディピティは生まれる。快適センサーの感度が良ければよいほど生まれる。
私は今回人形町で爪切りに出会うというセレンディピティがありました。15年かかった、やっぱ長すぎ(笑)もっと前からもっと考えてればよかったです。
でもこんなふうに、気がついてない「五感からの声」はまだまだたくさんあるんだと思います。特に、道具を変えるだけで解決するものであれば、もっと早く気がついておきたいですね。
私が「考える」ツールとして使っているのは、やはりスマートノートです。始めてからもうすぐ2年です。
書くことがない日もいっぱいあります。そんな日はけっこう体調のことも書きます。「頭が痛くてイブのんだ」とか「とんかつ食べたら胃もたれした」とか、「親指の爪にヒビが入った」とかも。
そういう「考える」までいかない小さなことでも、ノートに「ひとまず書きとめる」事によって、少しづつ積み重なり「セレンディピティ」に出会う土壌になっていく、そんなことをとても感じています。
なんだか爪切りからいろんなことを考えちゃいました。ノートにこういうのつらつら書いていくのって楽しいです^^
参考商品&書籍
うぶけやさんのものではありませんが、ネットで探したらありました「直線爪切り」。爪切りで爪が割れてしまうひとにおすすめ!