おもしろきおとなのためのノート術【第1回】おもしろき大人とは? | Rucca*Lusikka

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横浜のwebデザイナー&ライターRucca(ルッカ)のサイトです。ノート術で人生を楽しくおもしろくすることをテーマにブログを書いてます。

「おもしろき人」になって「自由自在に自分の人生を生きる」、というのが私のノート術とブログのテーマです。

このブログで不定期に掲載している「MYノート術」シリーズの記事は、岡田斗司夫さんのスマートノート術のメソッドをベースにし、マインドマップはじめいろいろな手帳術・ノート術なども参考に、自分なりに書く内容や、書くにあたっての姿勢、道具、書くべき内容などを試行錯誤しながら実践しまとめてきました。

「MYノート術」シリースの連載も長くなり、最初の頃の書き方とはずいぶん変わってきているので、「MYノート術」をタイトルにしての連載はここらでひと区切りとし、また新たに、

「おもしろき人」と「自由自在な自分の人生」をテーマにした
「おもしろき おとなのための ノート術」
※なにげに五・七・五だ

を、シリーズとして不定期に書いていきたいと思う。

時間があればノートは外に書きに行くことが多いです。

時間があればノートは外に書きに行くことが多いです。

ノートを書き始めて5年、やっと自分のベストなスタイルが確立されてきたかなと感じる。そのスタイルがそのまま他の人にもばっちり当てはまるわけではないのだけど、「なぜノートを書くのか」という動機のベースと、ノートを書くとどんな変化が自分の中に起きるのか…「書けばわかるノートの成果」はきっと共通なはず。

さらにノートを飽きずに楽しく続けるための「書き方」と「コツ」について。(これは次回以降詳しく)

書店にあふれるノート術や手帳術には、それぞれ「夢をかなえる」とか「成果を出す」とか「頭が良くなる」とか「仕事が速くなる」など、さまざまな「謳い文句」がついている。それぞれにきっとその目的に合ったノートの書き方がある。

さて。私がノートとブログで目指すのは「おもしろき人になること」と「自由自在に自分の人生を生きること」だ。

そもそも「おもしろき人」ってどんな人のこと?

ノートを書くことと、おもしろい人になること、人生が自由自在になることって、どう通じてるの?

まずはこの、ノートを書くための目的「おもしろき人」とはなんぞや、から話を進めたいと思う。なぜならどんなノート術も手帳術も、大切なのは「何のために」やるのかだから。ここが明確になってないままはじめてしまうと絶対途中で飽きてしまう。

 

おもしろき人とは「常識」の外に立てる人

ズバリ一言でいうとこれ。「常識の外に立てる人」

非常識な人っていう意味ではありませんよ(笑)「常識に左右されない人」「常識の側から物事を判断しない人」のことだ。

常識的な考え方、常識的な価値観、常識的な正義感に縛られてる人でおもしろい人なんてまずいない(断言)

「常識」ね…。私、予言しておくわ!
あなたたちは一生常識の垢にまみれてなんの輝きもない人生を送るわ!そして死ぬのよ!
「常識バンザイ!」って叫びながらね!

前にも紹介したけれど、これは臭いセリフで有名な大映ドラマの「アリエスの乙女たち」で主人公が言い放ったセリフだ。

背景を説明すると(うろ覚え)、南野陽子と松村雄基(←役者名)が部室に閉じ込められてしまい一夜を過ごしてしまう。そのように仕掛けたのは2人をよく思わないほかの部員たち。男女が密室で一晩過ごしたとなれば問題になり退部に追い込めるだろうと。

しかし南野陽子は「何もなかったのになぜ処分されなくてはならないんですか?」と開き直る(実際何もなかった)

首謀者が「世間はそうは思わないわ。常識で考えなさいよ!」という。それを聞いた南野陽子が返したのが最初のセリフなのだ。

セリフ自体がもう常識外れというより規格外(笑)でもある意味すごい真実。

かっこいい!

アリエスの乙女たち。ちなみにマンガにはこの台詞は入ってない。

アリエスの乙女たち。ちなみにマンガにはこの台詞は入ってない。

「常識」の「従」になってはいけない

常識に足並み合わせて生きていくことが、社会の一員としての大切なスキルだということは充分わかる。しかしものごとをあまり「考えないで」生きていくと、しらずしらず「常識」が「主」で自分が「従」になってしまうのだ。価値観が常識に乗っ取られてしまうのだ。これはこわいことだ。

常識が「主」になった人間の行動はだいたいわかりやすく皆おなじになる。

  • 間違えた人、スキャンダルを起こした人を叩くのに加担する
  • 他の価値観を持つ人を「正義感」から間違ってると決めつける
  • 能力的、経済的に弱い人は「努力が足りない人たち」と思ってる
  • 「かわいそうな人たち」というジャンルを自分の中で持っていて、そこには近寄ろうとしない

金太郎飴のようにみな同じ顔になる。こんなおじさんやおばさんいっぱいいる。でもひとりひとりはみな「いい人」で、普通に挨拶ができ普通に世間話をし、人から強く嫌われることなく憎まれることもなく生きていける。でもね、こういう人は絶対に「おもしろき人」にはなれない。

あなたはいま、見ていたTVのニュースから「怒り」を感じた、または「悲しみ」を感じた。

その「怒り」や「悲しみ」はほんとうにあなた自身の心のものなのか?

テレビのニュースキャスターの言い方や、VTRの作り方に影響されてはいないか?「常識」ではこう感じるものだ、と判断してから感情が動いてることはないだろうか?

「感情」が常識に支配されていないかどうか?

感情が常識に支配されると、もはやそのことにすら気がつかなくなる。「常識の垢にまみれてなんの輝きもない一生」をおくることになる。でも「何かおかしいかな?」と思うきっかけは人生の中で何回かはあるはず。

常識の外に立つために絶対に必要なのは「自分で考える力」だ。

これは常に訓練していないと身につかない。すぐに「自分」は消えて常識に流されていって「金太郎飴人間」になってしまう。

私が思う「おもしろき人」とは、「自分の言葉で、自分の文脈でモノゴトのすべてを語れる」人だ。そしてそれが自分の人生を「自由自在」に生きるということだと思ってる。

そしてそのための「訓練」がノートと向き合い、日々考え、書くことなのだ。

「世を忍ぶ仮の姿」がそのまま自分の姿になる怖さ

夕立のあとに薄く虹

夕立のあとに薄く虹

私が中・高校生時代を過ごしたのは1980年代で、今と比べて大きく違うのは「ネットが無い」ことだった。

つまり、自分の行動範囲内にいる人が世界の全てだった。10代の多感な時期にそこが「自分に合う」場所か「自分に合わない」場所かどうかというのは大きい。そしてその場所は自分では選べない。

私は中学の途中から転校してきた転校生だった。しかしそこは「自分に合わない」どころか非常に荒れた中学校だったため(そういう時代だった)目立ったら大変なことになるのがすぐに分かった。平和な日常が180度変わってしまった。

なので転校生で目立つうちは極力目をつけられないようにし卒業までをサバイブした。卒業時、校舎の窓ガラスは割れストーブは破壊されていた。

進路はとにかく平和なところに行こうと女子の多い高校を選んだ。が、ここはここで非常に保守的で田舎だった。野球とライブと少年ジャンプと三国志が好きな女子高生なんてあまりいない(笑)

この中・高校時代で私が身につけてしまったのが「世を忍ぶ仮の姿」だった。

  • 「ひとまず、先生や大人はみんな敵で、オレたちのヤンキーばんざいカッコいいというポーズを取ろう」
  • 「ひとまず、アイドルとかおしゃれとか、女子として常識的な趣味を持ってることにしよう」
  • 「ひとまず、頑張ることはかっこ悪くて一生懸命はダサいというポーズを取ろう」
  • 「ひとまず、褒められたら調子に乗らず、そんなこと全然ないよ~!と言おう」

でもホントの自分はそうじゃないはずだった。しかし、その後専門学校に進んでも社会に出ても、結局この身についた「仮の姿」はなかなか自分から脱げてくれない。

本心は違うのに、反射的にそう振る舞ってしまうのだ。こうなってくると「ホントの自分」のほうが怪しく思えてくる。これはとても苦しいことだ。私は、私がいた(本当はとても狭い)世界の常識の「従」になってたのだ。

それでも社会に出て、少しづついろんな背景を持つ人に出会い、ネットから気が合う友人が全国にでき、私の「仮の衣」は少しづつ剥がれていった。大人になるって、そしてネットがあるって素晴らしい。

自分を取り戻していくと、どんどん自分の人生がおもしろくなってくる!

多忙からかかる病「致死的退屈症」

そうして40代を前にした頃、また別の違和感が出てきた。

正社員で働いていた会社ではけっこう激務で毎日帰りも遅く、休日はグッタリという日々が続いていた。そんな日々が続いていてふと、自分は趣味がないと思った。

いや、なくはないんだけど昔のように「どハマり」できない。好きな本は読むけど新しい本をなかなか読まない。人と話していても会話が「世間話」から広がらない。そういえば選ぶ洋服も、前はあんなにバーゲン行きまくってたのになんでもよくなってきた。良くいえば欲がなくなり、悪くいえば「なにを楽しみに生きているの?」という感じ。

これはあれだ。ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる

「致死的退屈症」

てやつじゃないか?

「時間泥棒」である灰色の男たちは「時間を節約すればもっと豊かになれますよ」と人間にささやき時間を奪っていく。彼らは人間から奪った時間で生きている。だから人間にもっともっと時間を節約させなくてはならない。
「時間泥棒」たちは人間から奪った時間を小さな葉巻にしてふかす・・・そうすると奪った時間は完全に死んで葉巻の煙となり、この煙は人間を「致死的退屈症」という不治の病にしてしまうのだ。

なににも関心が持てず、感動せず、どうでもよくなり、感情もなくなり、心が冷え切って誰も愛せなくなって・・・虚ろな灰色の顔をしてせかせかと動き回るだけになってしまうのだ。

これはこわい。

さらにここに年齢からくる「記憶力の低下」が入ってくる。一度読んだ本、映画の内容を時間が経つと忘れてしまうのだ。しかも感動してもその時だけで、どんなに泣いても笑っても感想は「おもしろかった」しかでてこない。

これは、訓練していかないともっと退化していくのではないか?

「おもしろかった」「つまらなかった」「美味しかった」「まずかった」

感情を表現する語彙があっという間に減っていく。言葉をどんどん失っていく。心の表現の手段がなくなっていくのだ。

表現の手段を失うということは、あらゆるものに対して「消費者」としてしか関われなくなるということだ。

小説家じゃなくても絵描きじゃなくても発明家でなくても、クリエイティブは誰の人生にもある。それは自分の心を表現し誰かに届けることだ。 そのための語彙をなくすということはクリエイティブをなくすことなのだ。

自分の心の表現方法の手段を失ったら、自分から出てくるものは全て「常識印の金太郎飴」だ。

それで「自由自在に自分の人生をおもしろく生きてる」といえるだろうか?

「致死的退屈症」にかからないために絶対やるべきことはひとつ、「考える時間」を節約しないこと!

そんなわけで、おもしろい人生を送るためには…

ノートを書くことから始めよう!

というわけなのだ。「感動」や「感情」を、常識印ではなく「じぶん印」にするのだ。

読んだ小説も、おもしろい映画も、美味しかった食べ物も、旅先で見た風景も、好きもキライも全部「自分の感情」で受け止めて自分の感動にするのだ。そして自分の言葉で語るのだ。

そういうひとは絶対におもしろい!

そしてそういうおもしろい人は、生き方そのものが風のように雲のように自由自在だ。

私がノートを書くことを人にすすめるわけ、わかって頂けただろうか?

歴代ノート

歴代ノート

自分もまだまだ目指したい「おもしろき人」には遠いし、世を忍ぶ仮の衣はいまだに肌に張り付いてるところもある。ニュースを見て当たり前な感想をTwitterでつぶやいてしまうこともある。

でも5年ノートを書き続けてきて、自分の中で「取り返した」と思えることはたくさんある。そしてこれからも書き続けてさらに人生をおもしろくしていきたいと思ってる。

以前から書いていた「MYノート術」の未来版として、また不定期に書いていくのでよろしくおねがいします。

そしてひとりでも多くの人がノートをはじめてくれたら嬉しい。

 

紹介した本

おすすめ本&グッズの一覧

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あとがき

ノートシリーズリニューアルです。MYノート術と重複する所も出てくると思いますが、新たな気持でまた書いていきたいと思ってます。まずはノート挫折してしまった人がもう一度書きたくなりますように^^次回はノートの書き方についてです!

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