え~世に無数にあるブログの中で、書き出しのTop5には絶対入ってるであろう「すっかりご無沙汰してますが…」に、さらに1票入れるブログを書くことになってしまいました。
通っていた基金訓練の講座が先月で終わってしまい、まあ4ヶ月毎日みっちり勉強?をしていたわけですが、それを活かすも殺すも自分次第、さてどうする?
ところで、先生の影響で、スマートノートというのを初めて約2ヶ月になってます。
わりと散らばりがちな自分の「考え」を明瞭にしたいと思ったのが、そもそもの始めたきっかけ。
特にここ数年、言葉の難しさというか、思いの伝え方に手抜きをすることが多くなってきてる気がするのです。空気を読んで当たり障りの無い無難なことを話してるうちに(まあワタクシどちらかといえば空気読めないですが)、知らず知らずそれが「自分」になり変わっていっているような。
たとえば、ブログを書く頻度が落ちているのも、決して忙しいからとかではなく、伝えたい、語りたいと思う気持ちの部品が抜けてきているような・・・。
誰かのとてもいい話を聞いても、それを人にうまく伝えられなくてもどかしい。「感じる」から「伝える」までの道筋がスパッと開かなくなっていってる気がするのです。
誰かのいい話も、世の中の出来事も、読んだ本の感想も、「私が感じた」ことが「私によれば」という言葉に置き換えられない。
そういうのって、ちゃんと思考しないとどんどん退化していくんじゃないのかなって。
スマートノートには、そういう思考力を身につける、私が納得が行く訓練方法があると思ったのです。まだまだ実践中なので、まだまだ上手く説明できないんですけど、いま、本でいう「第3フェーズ」を実践中なんですが、ちょっといろいろ変化が出始めてきたんじゃないかなと思うのですよ。
これから、7月からは自分で自分のやっていくことをしっかり決めていかなくちゃいけない。怠惰な私は気を抜くとすぐだらだらして頭の中がごちゃごちゃしてしまう。現状がそこそこうまく回っていると、不満をためつつもまあいっか、になっていってしまう。
そういう毎日がイヤで3月からの私がいるのだからもう戻りたくない。
本で言う、頭の中での「悩みのジャグリング」を終わらせるためにもノート術、なかなか有効だとおもうのです。
あとは、萩に旅行に行って漠然と感じたことなんですけど、
博物館で、吉田松陰はじめいろんな人のお手紙を見たのですが、あの時代の人の教養の深さ、見識の広さってものすごいのですよね。
娯楽の少ない時代って、「面白い人」であることが多分、一番人生を楽しめてたんですよ。
空の雲を眺めて短歌を作ったり、そこへちょっと昔の中国の漢詩を絡めたり、それを聞いた人が「その歌はアレが元歌だな」と理解して、また洒落た返歌をする、なんていう文化が日本には古来からあって、教養のある人同士でないと味わえない知的な楽しみだったというか。
人生のおもしろさって、深い教養と、その人自身の面白さ、見識の深さ、それに通じる友がいて成り立っていくんじゃないかなって。特に幕末の人って、そういう人に出会うために日本中を歩きまくってたんですよねぇ。
たくさん本を読めば、映画を見れば、演劇を見れば、詩歌を読めば、人と話せば、仕事をすれば、
全く別ジャンルのその何かと何かが、「自分」を中心につながっていく楽しさ。
そういう「脳内リンク」がたくさんあればあるほどに、人生が楽しくなるのではないか。
でもただ毎日を送るだけでは、映画を観るだけでは、本を読むだけでは、仕事をするだけでは、
日々に流されているだけでは、「脳内リンク」は生まれてこない。「おもしろかった」だけで終わってしまい、すぐに忘れていってしまう。
立ち止まって思考することが大事なんですよね。
だからテレビは危険。お年寄りが日がな一日テレビを見てしまうのは、やっぱり「楽」に笑えて「楽」に感動できたりするからなんですよ。年取るとどうしても楽な方に流れてっちゃうんですよ。
昼間のテレビなんか見てたら絶対にあっという間に思考がボケてしまうと思う。
そんなわけでスマートノート。しかしですね、思考するって結構大変です。
気がつくとただの日記になっちゃったりして。まあそれでもペンを使ってノートに自分の手で書くことに意味があるかなと。
タイピングは文字を書くだけなら便利だけど、「図解する」には向いてないんですよね。
まえに、タイプする文章と手で書く文章は使ってる脳が違うっていう話を聞いたことがあります。タイプすると簡単だから、書く文章が長くなりがちだけど、手書きは大変だから自然と言葉を「選んで」書くようになってるらしい。
実感というほどのものはまだ無いけど、なんかそれわかる気がするのです。
あと、ちょっと長くなるかもだけど、この前友だちから聞いた話で、
亡くなった俳優の児玉清さんと、私の好きな作家である宮本輝先生の話の話。(友達も輝ファン)
読書家でもとても有名な児玉さんは、輝先生の著書のファンでもあって解説なども書かれているのですが、ある対談で輝先生と児玉さんはお話が弾み、その後も行きつけのバーに児玉さんを誘い、その日は文学を語りとても有意義で楽しい夜を過ごされたそうなのです。
ただ実はその時、児玉さんのお嬢さんが死の病で危篤状態だったそうなのです。
児玉さんはそんなことをおくびにも出さず、なので輝先生はずいぶんあとになってそのことを知ることになり、お嬢さんとの最後の時間を自分が奪ってしまったことを謝罪するお手紙を書かれたそうです。
その後、児玉さんからすぐにそのお返事が届いたそうです。そのお手紙にはお嬢さんを亡くされた悲しみが赤裸々に綴られていたと。
こんなに重いことじゃなかったとしても、自分が知らずに誰かの大切な時間を奪っていたことに後から気がついたとして、まず、私は謝罪の手紙を書けるのだろうか?
今さら謝っても・・・知らなかったし・・・でもこのまま知らなかったことにはできない・・・今度会った時に・・・。
また、そういう謝罪を受けたときにどう返事ができるだろうか?
別に謝られても…お気持ちは嬉しいです・・・仕方のないことです・・・あなたが悪いわけではありません。
あとになっても謝罪の手紙を送った輝先生と、娘を亡くした悲しみを赤裸々に綴った返事を書かれた児玉さん。
何かとても大切な事をこのエピソードの奥底に感じるんだけど、私の脳内リンクがまだ繋がらないもどかしさ。繋がる部品が増えるほど、自分の中の「大切な事」がもっと明確になっていくのではないだろうか。
こういうのって鍛えないとどんどん鈍感になっていってしまう気がするのです。それがちょっと怖いのです。
ちょっとスマートノートの話からは脱線してしまいましたが、、
毎日思考して掘り下げて何かを考えるというのはさすがに至難の業なので無理ですが、ただの日常メモになったり、予定確認になったり、落書き帳になったりしつつ、すこしでもおもしろい人間になるために(?)、また、これからおもしろいことをやっていけるようになるために、
ノートをつけながら「いろいろ考えて」いこうかなって思います。